なんて素晴らしい世界でしょう




古代の人間はきっとこいつの先祖を見てケンタウロスを創り出したに違いない。スフィンクスやエキドナの血筋もモデルはもしかしたら魔物じゃないのだろうか。
果汁の苦い色をした本をパラパラリと捲り終え、彼は目の前で話を続けている魔物に再び視線をやった――まあ持ってるものは弓矢でなくて杖だがな。場所も丁度神殿、何てお誂え向き。
「解ったな、これからお前には充分に役立って貰わねば困るんだ。虫みたいなちっぽけな力しか持っていないお前でも、オレの為に尽くす事だ」
彼はパタリと厚い本を閉じ、大袈裟に髪を払い上げ、フ〜〜と長い溜息をついた。その動作だけでもうこの魔物はお気に召さなかったらしい。
「リオウちゃん、でしたっけ、あんたちょっと態度がでかすぎるんじゃないんですかね」
彼がそう言うと、魔物は更に表情が険しくなった。
ガキが。心の中で彼は嘲笑する。
「何だと?」
「お前の態度が気にくわねえつってんだよ」 彼はうっすらと冷たい笑みを浮かべた。 「何だ?てめえは。面白そうだからその王を決める戦いって奴にはのってやるがなあ、急に現れてベラベラ喋くりやがって、キーキー煩えんだよ。口調がムカツクんだ」
「口の利き方がなってないな、バニキス?」 魔物は嘲るような笑みを浮かべる。 「これが当然な形だ。今の内からその体に刻み付けておくんだな、お前は素直にオレの言う事を聞いていればいいんだよ」
「あんた人にモノ頼む時のお願いの仕方をお家のヒトから教わらなかったんですか」
「頼む?」 魔物はバカにした笑いをした。 「思い上がるなよ。何故このオレがモノを頼むなどという事をせねばならんのだ、何もかも下等なお前に。オレはお前に"命令"をしているんだ…そして虫ケラどもは黙ってオレに従っていればいい」
「クソみてえなパパとママに育てられたな」
魔物の眼光が一層鋭くなったと彼が認識したその瞬間にはもう、杖の先端の宝石が彼の胸元に押し当てられていた。
「死ぬか?」 魔物はグッと杖を強く押し当て、「口に気をつけろよ、クソ鬱陶しい、クソ下らん、クソ下等生物が。貴様みてえな莫迦でも命は惜しいだろうが。理解できたか、クソ人間」
何だコイツ。ファザコンかマザコンか、それとも両方か。これほど凄まれても、心中でさえ彼はこの魔物を揶揄していた。それほどに彼は、この魔物に対して自分は何をしても大丈夫だという奇妙な自信があったのだ。
彼は僅かに笑って、わざとらしい溜息をついた。
「はいはい死にたくないでーす、気をつけりゃいいんでしょうが、お坊ちゃん。――でもねえ」
彼は杖にそっと触れ、軽く押しやった。 「てめえオレを殺せるのかよ?いいや、無理じゃないんですかねえ、オレはお前のパートナーだぜえ、お前が王様になる為に必要な、大事な大事なパートナー。理解できてるか、クソ魔物」
ピクリと魔物は頬を奮わせる。彼はそれを見て愉快そうに目を細める。クソッタレが、と魔物は吐き捨て、
「今この瞬間も命がある事に感謝しておくんだな、バニキス…オレはてめえみてえな下賤な野郎と組む事自体が、そもそも我慢ならないんだ。有り難く思えよ、このオレ様のパートナーとして選ばれた事を」
「へーえ、それはそれは」 彼はクッと喉を鳴らした。 「お前さっき言ったねえ、最も波長の合う者がパートナーとして選ばれるってよ。虫みてえにうじゃうじゃいやがる人間どもの中で下賤なるこのオレが、最もあんたに相応しいと選ばれたって訳だ、お坊ちゃん」
ガッ、
と強烈な音が響いて、美しい飾りの入った神殿の柱に亀裂が走っていた。
「…そういう所ばかり頭が回るようだな、お前は。小賢しい」 荒い息を吐きながら魔物は拳を下ろした、「口に気をつけろと言った筈だ。貴様の喋り方はいちいち癇に障る」
それは喜ばしい事だ。いちいち癇に障るように喋っているのだから。
彼は困ったように眉を下げ、肩をすくめた。この魔物はきっとこういう動作も気に食わない筈なのだ。彼は人と接する時の常として、もうこの魔物の性格を大体把握していた。何を好み、何を厭うか。彼はそれを最大限利用する。
こいつは他人に命令する事を当然と思ってる。他人がそれに従うのを当然と思ってる。自分の思い通りにならない事は大嫌いだろうよ、なあ?
「生意気だ」
想像通り、魔物は苛立ちを露にした。 「生意気だ、バニキス。いつまでもその態度で許されるなどと思ってるんじゃあないだろうな」
「お前の態度次第だぜ、リ、オ、ウ、クン〜」 彼は舌を出した。 「オレはなあ、一番嫌いなのはいい子ちゃんな人間だが、お前みたいなのもとってもムカツクタイプなんだ」
「奇遇だな。オレも全く同じ言葉をお前にくれてやる」
魔物は言い捨ててカツカツと大きな音を立てて歩き出した。
「来い、バニキス。まずは実戦だ」
彼はフンと鼻を鳴らした。全く性懲りもなく命令だ、オレはついて行かなくたって損する事なんか何もねえんだぜ、困るのはあんただけだ。
魔物は彼が自分の命じた通りに来るものと決めてかかっているようで、振り返りもせず階段を下りていく。
このクソ生意気なお坊ちゃんは、クソみたいにプライドが高い。
こういうタイプの奴のプライドをズタズタにして、心を折ってやるのは大好きだ。
彼はサディスティックな笑みを浮かべた。
こいつは泣かす。絶対、泣かす。
彼は本を抱え直した。面白そうだから今はまだ付き合ってやるけどよ。その内必ず泣かしてやると心に決め、彼はやっと歩き出して行った。




リオウとはよくよく趣味が合うものだと近頃彼は強く実感している。考え方や価値観などというものが本当によく似ているのだ。一ヶ月も一緒にいればそれが理解できた。
寧ろここまで考え方が合うのは、リオウが初めてかもしれない。最も波長の合う者がパートナーとして選ばれるというのは、成る程真実だったらしい。
何だかんだいって、やっぱりこいつはガキだ。そう解ってからは、気に食わなかったリオウの態度も可愛げがあると思えるようになった。そうなったらなったで彼が自分をそう扱う事をリオウは怒るのだが、その反応すらも彼は楽しんでいた。
魔物相手の"お遊び"は本当に楽しいし、リオウと話をするのも実に楽しい。彼は機嫌が良かった。
「触るな」
自身も長い髪を風になびかせながら、リオウの黄金色の髪を弄っていると容赦なくはねつけられた。
「ん?どうしてだ?」
「…何となく鬱陶しい」
「いいじゃねえか」 彼は笑いながらリオウの髪を口元に当てた。 「オレはこうしていたいんだ」
「…チッ」
リオウは軽く舌打ちをしてまた前を向いた。何が面白いのかさっきからずっと遠く空を見ている。
「何が見えるんだ?」
「まだ見えん」 リオウはそう言い、「時期が来れば人間界に…――いや、まだ先の事だ。時が近付いたら教えてやる」
へえ、と彼は特に興味もなさそうに返事をする。
髪を弄るのをやめてリオウの隣に並んでみた。こうすればリオウと同じものが見られるだろうか。太陽の様に柔らかな金の色をした彼の髪がただ風に揺れる。
「今まで遊んでやってきた奴らよお、ザコはザコなりに必死だったな。王になるってのはそんなに価値がある事なのか、永遠の命でも得られるのか?」
刹那主義の彼は永遠などというものに興味をひかれた事はなかったのだが、リオウにそう訊ねた。
するとリオウは静かにこちらに顔を向けた。
「…ああ。オレにとっては手に入るものは、永遠だろうな」
その時はまだよく解らなかった、リオウの言葉の意味が。そのリオウの笑顔が、楽しそうでも、嬉しそうでも、彼の知るどんな感情から来るものでもなかったので、彼は不思議に思っただけだったのだ。
風になびく髪に手をやり、「まあお前が王様になりたいってのならオレも何でもしてやるけどよ」
「ハッ、それは殊勝な事だな。初めの頃など散々オレに逆らってばかりいたお前が」
「オレお前の事好きだぜ」 彼は首を傾げ、笑いながら頬に手を当てた。 「だからお前を助けてやるんだよ」
世界中が無音になったのは気の所為だったのだろうか。
リオウはその時何も答えなかった。
アポロンの恵みの光を受けて、リオウはきらきらと輝きに包まれて見えた。
彼の言葉にリオウは、酷く戸惑ったような表情を見せていた。
まるで彼の言葉の意味がよく解らないとでも言うような、それの受け止め方をよく知らないとでも言うような。
ああ、知らないのか、こいつは――彼は笑った――それは、好都合だ。
「何だ?喜べよ、オレは好きな奴には優しいぜ。何でも助けてやるよ」
リオウはやっといつもの表情に戻り、「…弱い癖に。よく言うな」
「ああ、だからオレはお前が守れよ。お前もオレが好きだろ」 平然と彼は言ってのける。
「大層な自信だな」
リオウは皮肉めいた笑みを浮かべたが、彼は全く気にしなかった。相変わらずの表情で流れるように髪をかき上げる。
「オレの好きな神話は」 空に眼をやる。まだ、リオウと同じものは見えないが。 「愛は戦い。そういう話だぜ」
お前が知らないのなら、オレが教えてやるよ。
リオウは息を吐き出して首を振った。
「お前の言う事はいつも訳が解らん」
「お前ねえ、もう少し素直に喜ぶとかできないんですかね」
「やかましい、お前の戯言には付き合いきれん」
また空に眼をやったリオウは、太陽が眩しかったのか目を細めた。
それを見て彼も同じものを見る為に遠い空を眺める。同じ世界を共有するのだ。焦らなくてもいい、どうせリオウとはずっと一緒にいる事になるのだから。
全てだ、リオウが低く呟いた。
「オレは全てが欲しいんだ。必ず手に入れる。…そしてそれはオレにとっては――」
何かを掴むようにリオウは手を強く握り締めた。
「たった一つのものでもある」
その時はまだよく解らなかった、リオウの言葉の意味が。そのリオウの表情が、何故か酷く泣き出しそうに見えたので、彼はただ助けてやりたいと思ったのだった。



「おぉーい、まだかあ?」
足元の小石を蹴り、彼は何十回目かの文句を言った。
「いい加減疲れたぜ、お前は平気だろうがなあ、こっちは空気も薄くて死にそうなんだよ」
「黙れ、それならその煩い口を閉じていろ。無駄に体力を使うな」 容赦なくリオウは言い、それからブツブツと小言を言い出した。 「全くお前という奴はこの程度で…それだからお前はダメなんだ、少しは努力をしろ、戦闘中に僅かでも役に立ってみせろ」
「またそれかよ。お前が強いんだからいいだろ、無敵のリオウ様よ」
いかにも忌々しげにリオウは舌打ちをした。
冷たい空気を感じながら彼はいよいようんざりしていた。このろくな足場もない、切り立った嶮しい山道を軽々と進めるリオウとは違うのだ、体が汗ばんでいるが暑いのか寒いのかも判らない。
チクショウ、そろそろ頭痛がしてきたぞ。
高山病になったらリオウに責任取らせてやると思いながら彼はまた足を踏み出した。
時が来たとリオウが言った。
"それ"については前々から話を聞いてはいたのだが、彼はまだ特に興味を持ってはいなかった。やはり言葉で聞くだけではあまりピンとこない。これから実物が見られるようだが、寒いし苦しいし疲れたしもう嫌だ。 視界に映るものは空と山とごつごつした岩ばかりで面白くも何ともない。彼は力なく顔を地面に向け、ずるずると足を引きずった。
もう歩きたくない、と声に出そうとした時、
「――あれだ、バニキス」
リオウの声に彼は顔を上げた。一瞬眼が眩む。リオウはもう足を止めていた。呼吸の苦しさを堪えながらぼんやりと目の前のものに焦点をあわせた。
「あれが、ファウードだ」
神々の住む山が見えたのかと思った。
一瞬、彼は言葉も呼吸も失った。
何だこれは。何なんだ。存在し得るのか、こんなものが。
そこにはあまりにも巨大な光景が広がっていた。
疲労も呼吸の苦しさも忘れ、彼は立ち尽くしていた。すげえ、と声を漏らす。
「どうだ、オレはこいつの力を手にするんだ」
彼はリオウの隣に並んだ。隣に並んで共にこの素晴らしいものを見た。僅かに身を乗り出し、ファウードを見上げる。
「リオウ、ホントに動くのかこんなもんが、こいつを従えられるのか」
「ああ、そうだ」
世界が変わると思った。
何もかもが変わるのだ。鬱陶しいもの、煩わしいもの、一切が失われる。どんな王国が待っている事だろう。
「リオウ」 どくどくと脈打つ鼓動が自分の耳にも聞こえてくる。 「いいなあ、楽しそうだなあ、このオモチャはよ。早く遊んでみてえもんだ」
「ああ。そしてオレはこいつで――王の座を手に入れるんだ」
深い海を思わせる色をした彼の瞳から温度が消えた。
一族の奴ら――翻る髪をそのままに、彼はリオウの横顔を見る。ファウードを見つめるリオウは、何かに焦がれるかのような表情だった。リオウにはどんな世界が見えているのだろう。
こいつは王になれば、永遠に認められると思っている。
今はいい。リオウが喜んでいるから、今はそれでいい――彼はファウードに目を戻し、リオウと同じものを見た――だけどその後は。お前らだけは許さねえ。
「リオウ、オレのこれからは全部お前にやるよ」 彼は言った、「お前の為なら何だってしてやる」
リオウは笑った、「何を今更。お前はオレのパートナーに選ばれた時から、そうである事は決まっていたんだ」
「だからお前のこれからも全部オレのだ」 眼を瞑り、彼は空を仰いだ。 「最高に素敵な世界にしてやろうぜえ」
世界が変わると思ってた。




何だこいつら、何なんだ。
彼は目の前のものが理解できなかった。そうする事を本能が拒否していた。体の震えが抑えられない。
チクショウ、怖え、何だよこいつら、何なんだよ、怖え…――
必死に歯を噛締める。大丈夫だ、リオウは強い、圧倒的な強さを持っていて、誰だって敵わない、だから
リオウの体が宙を舞う。黄金色の髪が真紅に染め上げられていく。あの血はリオウのものなのか。この声は、リオウのものなのか。理解が出来ない。世界はあまりにも急速に崩れていく。彼はリオウに手を伸ばす。リオウの名を呼ぶ。それだけが彼の頼れる確かなものなのだ。
やめろよ、何なんだよ、こいつが一人でどんなもの抱えてきたと思ってんだよお…――彼は顔を歪める――とるなよ、やめろ、やめやがれ。こいつは王にならなきゃいけねえんだ、こいつにとってはそれが全てなんだ、全てで、たった一つの欲しいものなんだ、だけどオレは――
震えながら呪文を唱える。雷鳴が轟く。リオウが地面に打ち付けられる。音が聞こえない。リオウの声しか聞こえない。自分の声も聞こえない。
オレはリオウしかいらないんだ、他には本当に何も、オレにとってはそれだけが全てなんだ、嫌だ、オレの世界を壊さないでくれ――
「オレは、王になるんだ――必ずだ、どんな事をしても、」
振り絞るかのようなリオウの声。それでも立ち上がろうとするリオウ。彼は本を持つ手にきつく力を込める。
「必ずオレは王になるんだよぉおッ!!」
ああ、そうだよなあ、リオウ――お前は王に、なるんだもんなあ。
守ってやると言った。何だってしてやると言った。受け止めてやると言った。お前の隣にいてやると、そう言った。
素敵な世界が、待ってるんだもんなあ――
「ファノン・リオウ・ディオウ――!!」
そのリオウの叫びに応えるように、彼は全てを込めて呪文を唱えた。
オレの世界を、壊さないでくれ
白銀の閃光が瞬くのが見えた、
世界はあまりにも無慈悲に崩れていく、
ああ、と彼は思う、
チクショウ、やっぱりか、
雷鳴が世界を蔽う、
バベルの塔はいかづちに崩されちまったし、ゼウス、あんたは最高神だよなあ。
視界の全てが白い光に包まれた。
最後にリオウに手を伸ばした筈だったが、届いたのだろうか。彼の意識はそこで途切れた。
次に目が覚めた時にもしもリオウがいないのなら、もうそんな世界は見なくていいと思った。






ええ、私は心の中で願っています。なんて素晴らしい世界なんでしょう。








い、一応23巻発売記念みたいな!
結局出会いは判らずにチッキショーイだったんですが最初の頃は絶対超仲悪いぜ奴らという妄想を書けて楽しかったです。もっと他にバニキスに言わせたい科白あったんですが際限なく口喧嘩ばっかになりそうだったので割愛
これ書いてる時うっかりおまけページの修行の成果だぜ!!!を目に入れちゃって精神の軌道を修正するのに必死でしたハアハア(息切れ爆笑)
あ、タイトルと一番最後の文章は例の歌ヨリ!

05.11.20



BACK