カーズは月を見ていた。 肩に食い込むギター入りのショルダーバッグの重さにはもう慣れていた。 何も持っていないかのような動きでカーズは歩いた。街灯よりも遥かに綺麗な月を見ていた。 寂しい通りを歩いている人間は彼女の他には誰もいない。 近頃騒ぎとなっている通り魔が、週末だと言うのに人々を家へと閉じ込めているのだ。お陰で近頃ライブの客入りも悪い。 尤も、他のメンバーが嘆いているこの状況も、彼女にとってはさしたるものではなかったのだが。 通り魔が現れるのは決まって夜(当然と言えば当然の話だが)。一人でいようと数人でいようと、人々の前に現れるそれは、決まって最初に本のようなものを差し出し何かを命じるのだという。 3メートル近くあるという通り魔の異様な姿を見ただけで人々は逃げ出す。皆、そこを鎌のようなもので切裂かれるのだ。 切裂きジャックの再来かと、人々は恐怖した。幸いにもまだ人死には出ていないし、この通り魔は19世紀の殺人鬼ほど、胸の悪くなるようなやり方はしていないのだが、ジャックと名付けられた殺人鬼が手にかけた娼婦5人の倍以上の数の人々が傷付けられているのも、また事実であった。 しかし、そんな事の何もかも、カーズにはどうでも良かった。 いっそその、Mr.リッパーにお目にかかってみたいものだわ。 カーズは月を見た。 人間関係は悪くなかった。収入もカーズ一人が生活していかれるだけは充分にあった。そのクールな性格と外見から女性ファンも多かった。 普通の女性よりも声量のあるカーズのハスキーな歌声は、見事なものだと称賛された。時折スカウトをされる事も珍しくなかった。 しかし、そんな事の何もかも、カーズにはどうでも良かった。 要するに彼女は、今の生活に飽きていた。 全くいつからだろう。それとも「いつ」なんていうものはなく、生まれた時からこうだったのだろうか。 何をしても充足感と言うものがない。何かをしては、すぐにまた別の何かをせずにはいられないのだ。 この歳になるまで本当に色んな事をやってきた。歌う事は好きだったが、それもすぐに放り捨てられるものでしかなかった。 「――止まれ…」 地獄の底から響いてくるような声が聞こえた。 カーズが足を止めたのは、角を曲がろうとした時に目前に人影が現れたからであり、その影がすぐによけられそうなものではなかったからであった。 3メートルはあろうかという、マントを纏った甲冑の人間。切れかけの街灯と、月の明かりに照らされたのは、恐怖せずにはいられない異形の雰囲気を放つ者。 カーズは少しだけその者を見上げ――よく響く声を出した。 「貴方が切裂きジャックさん?」 甲冑の男は僅かに身じろぎをした。 「女…貴様…オレが、怖ろしくないのか?」 カーズは首を傾げた、「…ええ。怖がらせる事が目的なの?」 「逃げ出さないのはお前が初めてだ」 「逃げてもいいけど」 カーズはショルダーバッグを抱え直した。 「これが重いから」 全くいつからだろう。こんなにも何事にも心を動かされなくなったのは。今の自分を見たら両親がどう思うやらだ。それとも「いつ」なんていうものはなく、生まれた時からこうだったのだろうか。 「…面白い女だ」 甲冑の男は緩慢な動きでマントの下から手を差し出した。 「これを読んでみろ」 言われるがままに彼女はそれを受け取った。厚い表紙の…本だった。月明かりに翳してみる。濃い青紫だ。彼女の好きな葡萄を思わせる色だった。 パラララとページをめくる。 「何語?これ。私はラテン語の知識はないんだけど」 「一番最初のページを…見てみろ…」 「読めないってば…これが読めなかったら切裂かれるって訳なのか?」 「いいや…今までの人間はオレの話も聞かずに逃げ出した…だから引きとめようとしただけだ」 「過激な止め方もあったものだ」 一番最初のページを開く。 「――ガ…ズロン?」 ――瞬間 ――風を切る音だけが聞こえた。 「…やっぱり私も切るつもりなのか?」 カーズの右頬から一筋の血が流れ、白い肌に紅い色をつけていた。甲冑の男のマントの下から伸びた鎖つきの巨大な鎌が、彼女の背後の街灯を切り倒した所だった。 「お――ま、え…」 (兜の下の表情を読み取るのは困難であったが)自分がその巨大な鎌を飛ばしたというのに、甲冑の男は呆然としていた。 「名前…女、名前、教えろ、お前は何と言うッ」 「…カーズだけど、Mr.リッパー」 「我が名はブザライ、いいか、今から話す事をよく聞け――我が本の使い手よ」 「魔物?…それってブラックドッグとかナックラヴィーとか、そういう?オーガーとかモンスターとか?あんたってもしかしてアーヴァンク?――じゃあないわね、」 カーズは少し笑った。 「どう見たって、ビーバーには見えないもの」 「人間界の認識で好きなように受け取れ。魔物は魔物だ」 「あんたも子どもなの?」 「そうだ」 「…ふぅん…貴方――ブザライみたいな魔物が100人って?」 「いや姿形は様々だ…強さもな」 そ、と呟いて、カーズは短く刈り込まれた金髪をぽりぽりと掻いた。 「それで…私が断ったら、どうするんだ?」 「お前は本に選ばれた時点で既にこの戦いから逃れる事などできはしない。そして」 ブザライはマントの下でじゃらりと鎖の音をさせた。 「このオレが断らせる事などさせはしない」 カーズはくっと喉を鳴らした。 「やってごらん」 空気が張り詰めた。 「やってみればいい。もう一度、その鎌を私に向けてみろ」 ブザライは息を吐き出した。 「――オレは本気だぞ、女」 「カーズだ」 鋭い眼で彼女は言った。 「お前は私のパートナーなんだろう?その私がいいと言ってるのよ、やりなさいよ、じゃないと私は断る」 ブザライはゆっくりとマントを払い上げ、禍々しいまでに巨大な鎌を現した。鎖を巻き上げ、荒々しい動作でそれを投げ飛ばした。 眼前に切っ先。風の音。風の音。風の音。 ――ああ。いい風だ。 カーズは眼を閉じた。 ゴッと鎌が落下した重たい音が聞こえる――それより前に、彼女がずっと使ってきたギターが砕けた音も。 「――おま、え…!?」 鎌が切裂いたのはカーズが肩に下げていたギターバッグだけであり、彼女本人は左頬にも紅いものが流れているだけだった。 「まだまだね、坊や」 カーズは静かに目を開けた。 「躾のなってない子猫とおんなじ…」 「ッ、何だと貴様ァ!!」 「私の言う事を聞け」 激昂して再び鎌を振り上げたブザライにキッと視線を向ける。 「お前は未熟だ、自分で思っているよりもずっと。まずそれを正していかないと、すぐに負けてしまうに決まっている。だから私の言う事を聞く事ね」 そこで一呼吸置き、「――王になりたいんでしょう?」 ブザライが言葉を詰まらせるのが解った。 「…オレは…負けた事などないぞ」 「そう、でもそれはもう忘れるのね、今まではその荒っぽいやり方でも充分通じただろうけど、この戦いではきっと他の魔物も死に物狂いで勝とうとするだろうから。あんたは沢山学ばなければならない、勝つ為の事を」 「お前の言う事を聞けば、大丈夫なのか…カーズ」 「オーケー、そう、私はカーズだ、ブザライ。――そうね…まず…もう人間は傷付けない、力を振るうのは魔物相手か、どうしようもない時だけよ。いい?」 ブザライは低い声で「…解った」と答えた。カーズは満足そうに頷いて、青紫の本を持つ代わりにショルダーバッグを放り捨てた。ごめんなさい、清掃の人これ片付けておいて。 それからメンバー達の顔も思い浮かべ、謝っておいた。 私の代わりを探しておいて、私は新しいパートナーを見つけちゃったから。またどこかで会えたら、歌いましょう。 「さてと――とりあえず、私の家へ行こうか」 こんなにあっさりと魔物だとか言う者の話を信じ、こんなに簡単に危険な世界へ足を踏み入れる自分を、他人が見ればいかれてる、と言うだろう。 実際今までもよくそういう事は言われてきた。彼女は少しも気にしなかったが。 けれど確かに、今の私はクレイジーだ、と自分でも思う。 しかし、そんな事の何もかも、カーズにはどうでも良かった。 要するに彼女は、今の生活に飽きていた。 「ちょっと」 柱を見上げて何かを呟いている長い黒髪の男は、声をかけてもこちらに注意を向けようともしなかった。 カーズも構わず言ってやる。 「私の相棒が迷惑してるんだけど。あっちで変な歌を歌ってるのは、あんたの子か?」 「…キースはオレの子どもじゃない」 柱に手を当てたまま、やっと男は振り向いた。 その彫りの深い顔立ちと、独特のアクセントの英語からすると、彼はドイツ人だろうか。 「似たようなもんだろう、私達にとっての魔物っていうものは」 「キースはまあ…オレの助手みたいなものだ」 「助手?」 また柱へ顔を向けた男の言葉にカーズは首を傾げる。 「オレは映画監督でな…。…あいつに役者をして貰いたいもんだが」 「ッ映画監督!? えと、ベルン、だったっけ、あんたがか?」 事も無げに言った男に、カーズの方が驚いた。ベルンは巨大な柱のぐるりを移動しながらぶつぶつと何か呟いている。 「そんな社会的地位を持っている人間が何だってこんな…リオウに協力してる?」 「面白いから」 全く声のトーンを変えずにベルンが言った。 「魔物の戦いというのは、実に興味深いものだろう、映画作りの参考になる。普通に生きていたらとてもじゃないがこんな体験はできんからな」 自分はさぞ間抜けな顔をしていた事だろう。 カーズは暫く何も言えなかった。 「――ベルン…あんた、このファウードがどういうものか、勿論解っているわよね?ここへ来る時説明を受けた筈、人間界を滅ぼせるほどの力を持ってるのよ、コイツは。それでもあんたはいいって言うのか?映画を観る人間が誰もいなくなったとしても?」 ベルンは首をひねってカーズを見た。 「オレは良い映画が作れたら何でもいい。そしてオレは誰かに何かを伝えたくて映画を作っている訳じゃあない、自分の表現したい事が無限にあるからだ。キースはコイツの力が欲しいようだが…興味はないな。ああでもコイツを題材に撮れば面白くなりそうだが」 再びベルンは柱を触ったり見上げたりの作業に注意を戻していた。 「ああ、これをセットに出来ればどれ程素晴らしいものが…パンアップ…アオリか?…」 変人。 ベルンの背中を見てカーズはそう思った。自分もかなり変な方だとは自覚していたが、世界と言うものはこんなに広いものか。 思わずカーズはクッと笑ってしまった。こういう人間は面白くて好きだ。 「カーズ、そういうあんたはどうしてだ」 今度はしゃがみ込んで床を触り始めたベルンが言った。 「何が目的でここにいる。コイツの力か?」 「…あァ…よく私の名前を…」 「仕事柄人の顔と名前を憶えるのは得意でな。何が目的だ?」 「…暇だったから、かしら」 言葉を選びながら答えた。と言っても、選ぶまでもない簡潔な答えだったのだが。カーズは腰に手を当てる。 「やりたい事が何もなくてね。リオウは嫌いだが…私はブザライが好きだから。乱暴者だけどいい奴だと思う。あの子が王になりたいというのなら協力してやりたい、ここへ来たのも多分あんた達と同じ目的だろうけど…」 リオウと違って、人間界ごと消し去りはしないだろう。 「あの子は人間は傷付けない、私と約束したからな。他の王候補達を一掃するつもりね」 「そう言う事をオレに喋っていいのか?」 「どうせここにいる奴らは殆どが同じ考えでしょう?だったら喋らなくても一緒よ」 カーズは自分達がいた広間の方を見た。体がなまるからとブザライがトレーニングをしたいと言ったのでそこへ来たのだが、途中でキースが自分も暇だ暇だと言いながら乱入してきたのだ。 全くこのベルンという男は、実際に子どもがいても放任主義だったに違いない。パートナーを放っておいてこんな面白くもない柱や床に熱中しているのだから。 「キースは放っておいてくれ…あいつは一人で遊ぶのが好きだからそのうち飽きる…」 その「一人で遊ぶ」を自分達の傍でやられるから迷惑しているのだが。 「あんたはずっとここでそうやってるの?」 「いや?ここは建造物が沢山あるだろう、それを全部見に行くが」 「…暇ね、貴方も」 「お前はどうなんだ」 ベルンは腰を上げた。 「ずっとそこでそうやってオレを見ているのか?」 カーズは笑った。 「それは暇すぎるわ」 もう一度広間を見る。ブザライは一人でも大丈夫だろう、キースに辟易しているとは思うが。 「外の空気も吸いたいし…見学にご一緒してもいいかしら、ディレクター」 オレは構わんが、と映画監督の男は言った、「オレはそういう事に熱中してると周りの事に全く注意を払っていないらしい。多分話しかけられても返事せんだろうし一人で色んな所へ行く…嫌になったら一人で帰ってくれ」 別にいいわ、と元シンガーの女は答える、「元々他人と会話するのはそんなに好きじゃないから。でもそうね、何か隣で歌う事を許して頂けるかしら?歌は好きなの」 「歌か、いいな。何を歌う?」 ベルンはもう早々と歩き出していた。カーズも後を追う。 カーズは顎に少し指を当てた。何でも歌える。どんな歌も好きだ。今この場に相応しい音楽は?―― 「そうね」 カーズはとびきり優雅に微笑んだ。 「ベートーベンでも歌おうか?」 意識してなかったけど新刊記念っぽいグレイプ組! ベルンは私が出したかっただけです グレイプ組はパートナー間での会話というものが全くなくて絆とか信頼とかが窺えないまま終っちゃって非常に残念なので夢と希望を詰め込むしか… しかも二人とも科白が少ない上にブザライに至っては初登場時以外はゴオオとかガアアとかばっかりで口調が全く解りません。 9割方捏造ですねイエーイ! あ、タイトルはイタリアで見られる吊り雲の名称です。 05.7.18 |