連次は花なんて見ていなかった。ずっと雨が降っている。体格の良い連次を包んだ黒いレインコートの上をいつまでも雨が流れ落ち続けている。梅雨入りまでまだ一ヶ月はあるというのによく降る事だ。
児童公園の歩道に面した側の花壇の一角に座った連次は息苦しさに僅かにフードを上げる。雨は好きだが、今日は少し湿度が高い。レインコートに閉じ込められた熱は彼自身の様に行き場をなくしそのまま連次に纏わりついてくる。 熱のこもった内側にある膝の上に連次は大きな本を抱いていた。連次はさっきから彼の相棒が戻ってくるのを待っていた。膝の上のその本は、相棒のやわらかな毛を思い出させる優しい色をしているのだった。 雨で湿ってぐじぐじとしたシューズ。連次はじっと見下ろした。薄汚れた靴。ねっとりとした泥。濁った水溜り。あーあ、地面にあるものはどうしてこうもオレによく似てるんだか。 雨を降らし続けている今のこの鉛の空も確かに薄暗く汚れてはいたのだが、あれはもっとこう何と言うか気高さを併せ持った薄暗さだ。王子と乞食みたいなものだ。例え外見がそっくりでその身をボロで覆っても、王子自身から溢れ出る気品は決して覆い隠せはしなかっただろう。自分は決してあの高さには届かない、比肩しない。自分は唾を血反吐を吐きつける地面の汚い部分に似ているのだから。 連次は自分に価値を見出すのをとっくの昔にやめており、それなのでこの比喩にしても自分を必要以上に卑下しているとかそういうものではなく、結構前から本当にすんなりごくごく自然に認めていた事だった。まあオレはクズみてえなもんだよなと。 いつか遠い昔にはもっと、あの空に届きそうな何物かを欲しいと思っていたし手に入れようともしていた。だが育っていく過程で、世の中は自分に対して全く優しくしてくれないんだなあ、と段々思うようになってそう感じる事が当たり前になり、腹立つなあ、何でオレばっかり、煩いなあ、邪魔だなあ、もうどいつもこいつも嫌いだなあ、というような気持ちばかりが増え続け遂には連次に空を完璧に諦めさせた。 オレがクズだから優しくされないのか、それとも優しくしてくれないからオレはクズになったのか?どっちが先なのかもう思い出せなかった。どっちにしろ連次は卵と鶏のパラドックスには興味がないしそういう難しい事は考えないで生きてきた。世間は自分に優しくない、自分はクズみたいなもん、そして自分は喧嘩が強い、これだけ解っていたら充分だった。正の価値はないが負の価値が自分にはあると気付いた連次は、自分の体格と荒々しい気性を最大限活かして暴力の世界にどっぷりつかっていった。 ここではクズであるほど価値が高い。誰も連次に勝てなかった。そんな連次だったので相棒から持ちかけられた話はとても性にあったのだった。戦う事、それ自体が面白かったので、本来手段である筈のそれが連次にとっての目的で、相棒にとっての目的の「王様」は興味がないというかこう言っちゃ何だが寧ろどうでも良かった。別にオレが王様になれる訳でもないしねー。 しかし連次は相棒の帰りを待っている。右頬の古い傷跡をそっと撫でる。あの雨の日、小さな相棒が小さな舌でなめてくれた小さな傷だ。こんな所に自分を待たせて相棒はどこまで行っているんだろう。雨音と一緒に学校帰りの小学生達のキャーキャーはしゃぐ声が聞こえてきて、ああ煩いなだからガキは嫌いなんだよなと連次はジロリと少し遠くの集団に眼を向けた。 「何かなーこいつ」 「智也くんどうする?」 「しーちゃんそっち持って!しっぽ!」 「何かくわえてるよ」 「秋生んちでも犬飼ってなかった?」 「飼ってるよー龍太郎でしょ」 「こいつ捨て犬かなあ?」 「でも首輪してるぞ」 「ハハ見て超怖がってる!あ、そこの石投げてみたら?」 バチャリと水溜りに足を突っ込んで大きな音を立て、連次は小学生達に自分の存在を知らせた。泥水がジーンズにはねたがまあそんなに気にしなかった。どうせ元々汚れてるし。小学生達は突然背後に現れた大きな大人にぎょっとしたようだった。わざわざフードを上げて眼光が鋭かったり二つ傷跡があったりする顔を見せたりしなくても、連次はただ黙ってそこに立っているだけで大抵の相手を威圧する事の出来る凶暴性を滲み出させていた。 「な、何?お兄ちゃん」 推定「智也くん」が恐る恐る連次を見上げる。連次の背の高さからは、カラフルな傘やレインコートの子ども達の輪の中にいる子犬が見えた。頭を伏せて蹲っている子犬だった。 「それはオレの犬だ…――とっとと失せろや」 特別低い声音でそう凄むと、小学生達は一瞬ビクンと体を震わせた。皆が皆お互いの顔をそろそろと見て、智也くんがわっと走り出すと途端に他の子どももそれに続き、キャーキャー言いながらあっという間に走り去っていった。ランドセルがガタガタと揺れる音が響いていた。連次は子犬を見遣る。首をもたげ、連次の顔を認めた相棒はガラス玉みたいにきらきらした瞳を一層輝かせた。 「バカ、ゴフレ。何してるんだよ。今は本の持ち主だって見つかってるんだから人間相手に遠慮する必要ねえだろ。あんなガキ共さっさと追い払や良かったんだ」 相棒はクゥー…ンと鳴いた。とてとてとてと連次の足元まで歩いてきて彼を見上げる。何かと思って相棒をよく見ると青い塊をくわえていた。連次は屈みこんでそれを相棒の口から受け取った。 紫陽花だった。 「…お前。…もしかしてこれ取りに行ってたのか?」 「そう。思い出したんだ、朝散歩中に見かけたから連次にあげようと思って。きれいだろ」 連次は花なんて見ていなかった。地面の汚い部分ばっかり見ていてそこにある綺麗なものを見ようとしていなかった。そんな自分の為に相棒は、露がそのまま固まったような慈愛の色をしたこの花を取ってきてくれた。連次にあげるこの花の為に、自分が脅かされる事を耐えていた。連次は紫陽花の上の雨粒をぼんやりと眺めた。透き通っているなあ。 「よく見つけてきたな。まだ咲く時期じゃねえのに気の早え紫陽花だぜ」 「アジサイっていうのか。人間界にはきれいな花が沢山咲いてるな」 小学校低学年の頃だっただろうか。相棒が優しくしてくれた為に、連次は数少ない「世間が自分に優しくしてくれた」記憶の一つをこの雨の中思い出していた。 連次くんのお名前はとても良い名前だね。 隣のクラスの三十歳ぐらいの女の先生にそう言われた。教科の中でも国語が大好きだという先生だった。この年齢の子どもによくある事として、周りの同級生達から電子レンジだのオーブンレンジだのレンジでチンと三分間だの散々からかわれそれを言った相手をその度きっちり殴っていってその度毎回先生に叱られていて色々面倒だったので、連次は自分の名前が好きじゃなかった。だからその先生の言葉はひたすら不思議だった。けれどその先生はこう言った。 次に連なる。皆の為に何か良い事をどんどん繋げていって欲しい、そういう風な意味をお父さんお母さんは込めたのかな。とても良い字、良い名前だと思う。 「なあ…お前さあ、オレがお前を拾った時……どうしてオレの顔なめたんだ」 結局連次は家に帰っても両親に、本当に自分の名前はそんな事を願ってつけたのかは訊かなかった。違うよそんなんじゃないよ別に意味なんか考えずに付けたのよ、みたいな事を言われるのが怖かったからだ。連次は今でもその小さな時からの微かな希望をひっそりと胸に抱いている――本人はもう全く気付かない程の意識の奥へ埋もれてしまっているが。 けれど連次は今訊いた。希望を壊される事を恐れた子どもはほんの少し育っていたのだから。連次は自分で思っている以上の何かをこの小さな相棒に求めている、慈愛の色をした花みたいな何かを。 相棒はクーン?と首を傾げるみたいにした。どうしてそんな事をわざわざ訊ねるのかという風だった。 「連次が泣いてるみたいに見えたから」 視界が霞んでいるがそれは雨が眼に入りかけているからだ。バカゴフレ。あの夜だって、そうだっただろう? 「…泣いてたのは、お前じゃねえか」 「ああ、鳴いてたね」 「……お前が言ってるのは字が違う気がする」 「涙を流していなかったか?」 「雨だ、バカ」 連次はフードをパンッと払った。雫がはじける。連次の頬を幾つもの雨筋が伝う。あの日だって雨が降ってたからだろ恥ずかしい勘違いしてんじゃねえよてめえゴフレこの野郎。連次は半ばヤケで勢いよく立ち上がった。手に持った紫陽花からも沢山の雨粒が転げ落ちた。 紫陽花を持った手で連次はそっと頬の傷跡に触れた。自分の手なのに、自分の手はあまり優しく感じない。ここをぺろりとなめてくれた相棒の舌はあんなに優しかったのに。 バカな相手にブッ刺され、そいつは当然優しくない。どくどく血を流して病院に行って傷を縫って貰った医者の手も別に何も感じなかった。連次が彼らを諦めたように両親も随分昔に連次を諦めていたので、彼らは傷に触れようともしなかった。 両親でさえそうだったのに、小さな相棒の子どもは初めて出会った連次の傷に誰より優しく触れてくれたのだ。あの時感じたものを、愛情と呼んでも良いんだろうか。 次に連なる。何かを繋げていく。 連次のやる事は全部「終わらせる」ばっかりで、オレに繋げられる事っつったら喧嘩喧嘩仕返し仕返しまた喧嘩で暴力の連鎖ぐらいだよなーと考えていたけれど、もしかしたら、少しぐらいは別の何かを繋げられるのかもしれない、相棒の為になる事を。何といっても自分は「クズみたいなもの」で、まだクズそのものじゃないんだし。これが重要な所だ。 片手に紫陽花片手に本で連次の両手は塞がっていて、いつも相棒が眼を細めてくれて彼自身もその瞬間が好きな、相棒の頭を撫でてやるという行為ができなかったから、連次は代わりに言った。 「オレん家の近くによ、でっけえ立派な紫陽花が咲く所があるんだ。今思い出した。かなり綺麗だった気がする」 「これがいっぱいあるのか?取りに行った所にはまだ少ししか咲いてなかったぞ」 「まだ咲く時期じゃねえからな、もう少ししてから…」 連次は少し考えた。やはり紫陽花には雨が良く似合うが、相棒と見るのは太陽の下が良い。それもできるなら、雨上がりの虹の下が良い。 「……晴れたら一緒に見に行こう。いっぱい、いっぱい綺麗なもんをお前に見せてやる。ゴフレ、見に行こう」 ずっと雨が降っている。だがこれはいつか止む。 自分を見上げる相棒は、キューンと鳴いてそれから嬉しそうにしっぽを振った。 それは、いつだって連次が欲しいと思っていたささやかなものだった。 これ描いてる時イメージしてた話。好き好き薄茶本組! 今が正に梅雨ですが、薄茶本が高嶺家に来たのが5月8日なんで紫陽花が咲いてるかどうかクソ微妙ですけどそこは寛大な心でお願いします。 あの日の4、5日前想定です。 07.6.26 |