ただいまなんて言葉は小学二年の時から言わなくなった。
壁のパネルをポンと押した春彦は、「篠村さーん、オレ。開けてー」と声をかけた。 それから自分のズボンを引っ張ってくっついてたスギナの頭にもポンと手を置き、お前ちょっとそこの車の後ろに隠れてな、と囁いた。 スギナは言われた通りにする。3台もあるのでどこへ隠れたらいいのか少し迷ったが、春彦の指定がなかったのでどこでもいいのだろうと思い、右端の車の後ろへしゃがみ込んだ。
扉の開く音がし、お帰りなさいませ、春彦さん、と感じのいい老婦人の声が聞こえた。
「二週間の予定でしたのに、遅かったですねえ」
「ポルトガルの方にも行きたくなって。ハイ、お土産」
「まあまあ、毎回すいません、私なんかに…」
「留守番ありがと、もう帰っていいよ。後平気だから。他の皆ももう帰ったよな?」
更に二言三言会話が聞こえる。誰なんだろうと思い、こそっと頭を出すと、"シノムラさん"がこちらへ歩いてこようとしている所だったので、スギナは慌ててひっこんだ。
「あ、正陽帰ってないよな?」
「お父様はまだアメリカにいらっしゃると思います。連絡先は電話の前においてますけど」
「そっか。ども」
"シノムラさん"がお辞儀をして大きな門から出て行くのを見届け、スギナは春彦の下へ駆け寄った。
「よし、入りな。誰もいねえからよ」
オレの部屋行こうぜ、と言って春彦は荷物を持ったまま階段を上がっていく。スギナも一生懸命ついていった。幾つもの部屋を通り過ぎ、屋根裏部屋のような所の前まで来た。
「はるひこ、部屋は?」
「ここ。この階丸ごとオレの部屋だから」
基準がよく判らなかったが、スギナから見ても相当な広さの部屋だった。ざっと見た限りでも、この部屋だけで生活できそうなほど生活用品も揃っている。 春彦はベッドの上に荷物を放り投げた。
「てきとーにその辺座れよ」
スギナが日当たりのいい窓際のフローリングの上に座ったのを見て、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、春彦もそちらへ移動した。
「飲めよ」
「どうやって飲むんだ?」
「はあ?マジかよ…こうやって開けて…ほら」
小さな両手で缶を受け取り、ごくごくとジュースを飲むスギナを見ながら、さて、どうするか、と頬に手を当てた。 今回の旅行はとんだ土産つきだ。ガキ一人連れて帰るだけでもかなりのもんなのに、ただのガキじゃねえもんな。
「はるひこ、マサハルって誰だ?さっきのシノムラさんも誰だ?」
「…聞こえてたのかよ。篠村さんはー家政婦。判るか?お手伝いさん。正陽は血縁的にはオレの父親にあたる男」
「父親?父さんって呼ばないのか?」
「親父と思ってねえから」
春彦は冷たい声で無機的に言った。
「ていうかお前、オレの名前平仮名呼びしてるだろ!? 字ィ判ってるか、オレの名前!こう書くんだよ!お前日本語読めるよな?喋れるもんな」
春彦。メモ帳に書かれた文字を見て、スギナは口の中で何度も繰り返した。春彦はその横に、雑な字で正陽という名も書く。
「これでマサハル。ヘドが出るぜコイツ、春陽って言葉からオレの名前つけたんだとよ。正陽に春彦、更に母親は春香ときたもんだ。実にご立派な"親子"の名前ですねってか?ばーっか、たかだか名前如きで親子なんて繋がりは成り立つものじゃねーんだよ」
春彦はその紙をぐしゃりと丸めてゴミ箱に放り捨てた。
「っつーかお前、春彦言うな、さん付けしろよ」
「何でだ、春彦」
「だーかーらー!お前みてえなガキに呼び捨てされたらムカつくんだよ!」
「オレ春彦って呼びたいよ」
「お前の希望なんざ聞いてねえんだよ!オレが呼べっつーんだから呼べ!」
スギナはちょっと首を傾げてから、春彦さん、と呟いたが
「やだ。変だ。春彦は春彦だ」
「こらてめェ!」
スギナは知らん振りで部屋の中をちょろちょろと物色している。窓辺に置かれているお飾りの観葉植物に気付き、ジャンプしてそれを手に取った。
「春彦。こいつに水やってないだろ」
「ああ?さあ、留守の間は篠村さんが世話してくれてたと思うけど」
スギナは目を瞑り、葉っぱに手を当てている。
「違う。シノムラさん、部屋の掃除はしてたけど、こいつに水やるの忘れてたんだ。早く水が欲しいって」
他の人間がこんな事を言えば、春彦は一笑して相手にもしなかっただろう。けれど。
スギナは違う。スギナは植物の"声"が聞こえるのだ。
春彦は渋々立ち上がり、冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を、スギナが持っている観葉植物に降り注いだ。
「ちゃんと世話しろよ春彦。こいつ一年前からここにいるんだろう?」
スギナは、魔物の子だから。
"本"を読めといわれた時は、何だこのガキ、と思った。そしてその緑の本を読み、スギナの"力"を目の当たりにした時は、ただ驚く事しかできなかった。 飛行機の中で大体の事情は聞いた。バカみたいな話だとは思ったが、実際この本の力を見たのだから信じるしかあるまい。
さて、どうするか。
「スギナー、お前風呂いれてやるよ」
まあ、とりあえず風呂に入ろう。そして寝よう。考えるのは明日からだ。
「風呂?」
「お前こっち来てから入ってねえんだろ。ばっちいぞ」
マントのような上着のボタンを外してやりながら言う。その下の服の裾を掴み
「はい、ばんざーい」
「…春彦。オレは着替えぐらい一人でできるよ」
「あ、そうなの?まあいいよ、ほら、手あげろ」
ズボン脱いでこっち来い、とバスルームの扉を開けて言う。
「下の風呂の方がでけえんだけどなー。まあ今日はこっちでいいだろ。シャワーだけでいいよな?」
自分も服を脱ぎ、中に入って水を出した。ぬるいぐらいの温度でいいだろう。
扉の陰から葉っぱがそーっと覗く。
「来いって、洗ってやるよ。お前頭のそれ直についてるのか?とれる?」
「…とれる」
「じゃあ取れ。洗う時邪魔だ」
恐る恐るタイルの上を歩いてきたスギナを椅子に座らせ、頭から水を浴びせた。スギナはぎゅっと目を瞑っている。シャンプーもつけ、少々乱暴に頭を洗ってやる。
「緑かー、凄ェよなこれ地毛だろ?かっくいー」
「…そうか?髪の色なんて沢山あるぞ。人間は違うのか」
「おおもうダサイぜー。アジア人なんて黒か茶色だけで、後は金髪か赤毛…あと銀髪ぐらいだな。だからオレも染めてんだ。髪の毛傷むけど」
「そこまでして色を変えたいのか?」
「それが人間なんだよ。眼もカラコンいれてえなー。おい体自分で洗えよ」
自分もざっと頭と体を洗ってから浴室から出た。先に上がったスギナはマットの上でぽたぽたと雫を落としながら彼が出てくるのを待っていたので、急いでバスタオルを出して体中を拭いてやった。
「春彦、母さんみたいだ」
「――オレが?ははっ」
ズボンを履き、上半身裸のままごそごそとクローゼットの中を探る。小さい頃の服でも、と思ったがやはり全部捨てていた。 ちょっと…いやかなりでかいけど、と言って、バスタオルを羽織っているスギナに自分の服を放り投げた。パジャマ代わりだしまあいいだろう。明日辺りちゃんとした服を買いに行くか。 スギナの着ていた服を洗濯機に放り込みながら春彦はそんな事を考えた。
さっぱりした後はベッドにごろりと横たわって眠った。
まだ昼だったが旅行の疲れも取れてないし時差ボケも続行中だ。スギナはあまり疲れていないようだったが、春彦の隣に潜り込んできて一緒に丸くなった。 それを見た春彦は、――何となくあったかな気持ちになったのだ。スギナの頭をちょっと撫でて、いよいよ本格的に眠りに落ちた。
誰かの温もりを感じながら眠るのは、初めてだった。



次の日、玄関でとんとんと靴をはく春彦に、「オレもいく」とスギナは言った。
「だーめだって。言ったろ、オレちょっと学校行ってくるからさー。途中でフケるから昼までには帰ってくるよ。そしたらお前の服買いに行こうぜ」
春彦は振り返り、むっつりと黙り込んだスギナの頭に手を置いた。
「ほらお前あれだ、オレの部屋ゲームあるからさ、それやってろよ」
「やり方知らない」
「あー…向こうの部屋に本一杯あるから読んでろ」
「文字全部読めない」
「…とにかく待ってろ。じゃあな!」
春彦は急いで立ち上がってドアを開け放った。春彦ー!とスギナが叫んでいる。
「食いもんはその辺に幾らでもあるから!大人しくしてろよ!誰かがチャイム押しても絶対出るな電話も出るな!」
早口でまくし立てながらガチャガチャと鍵とチェーンをかける。そして身を翻し――ぽつりと一言呟いてから、タッとその場を駆け去った。
「…いってきます」


ここかな?
スギナは自分の背丈より遥かに高い塀を見上げた。
この辺りは規則的に樹が続いて植えられていて助かった。木々に春彦の事を訊ねながらここまでやってきたのだ。 春彦が出かけてから三時間ほど経ち、やっぱり自分も行こうと思い、ベランダから飛び降りて出て来た。(鍵を持っていない為玄関からでなくここから外へ出るのだ) ベランダの窓は開けっ放しだが、まあ大丈夫だろう。春彦の家の門はとても立派だし。
全く、家にいる間に敵が来る事を考えてないんだから。緑色の本が入ったナップサックを背負い直し、スギナはとことこと門の中へ入っていった。
「何だあ?ガキが入ってきてるぞ」
「ほんとだ」
数メートルもいかないうちに、植え込みの辺りでたむろしていた三人の男がスギナに声をかけてきた。
「おーい、お子様立ち入り禁止だぜー。誰か兄ちゃんにでも会いにきたのかあ?」
「こいつ凄ェ頭。ガキの癖に染めてるぞ、しかも葉っぱつけてるしよ、笑えるー」
「見ろよこの服、サイズ全然あってねえし。引きずってるじゃん」
「こら、聞こえてっか僕ちゃん」
春彦はどこにいるのだろう。この建物の中へ入ればいいのかな?学校ならばスギナも通っていたが、春彦の学校はかなり大きな人間達の通う所のようだった。中にいる人間に訊いてみようか?
「おいこらシカトこいてんじゃねえぞ」
スギナは男達に目もくれずにその前を通り過ぎた――所で、ナップサックをがっしりと掴まれた。
「お返事しろっつの」
「ガキ立ち入り禁止だって。聞いてる?」
「亮二こえー、ガンつけんなって」
うるさいなあ。ケタケタと笑い声を立てている男達に、スギナはうんざりとした視線を向けた。笑い声が止まり、明らかに男達の目つきが変わった。 ナップサック――というより本に触れられる事が腹立たしく、スギナは乱暴に手を振り払う。けれど今度はシャツを掴まれ、力任せに男達の方を向かされた。
春彦がくれた服――
「あぁ?睨んでんじゃねえよクソガキ。生意気なんだよ」
「やっちゃうのヒロちゃん〜」
「今休み時間だからここまずいよ。駐輪場いけば?」
人間三人。楽勝だ。
スギナが手を動かそうとした時
「何やってんだよてめェら」
男達がビクリと震えた。春彦――パッとスギナは顔を輝かせる。
ショルダーバッグを持った春彦の姿を認めると、三人は途端に猫なで声で媚びるような表情になった。
「いや春彦さんあのさあ」
「見てくれよ、ガキが入ってきててさ」
離せ、と春彦は低い声で命じた。
「手ェ離せ。そいつは、オレのダチだ」
「はぁ!? え、ダチ――ってこいつ!?」
「え、春彦さん、ちょっ」
「離せっつってんだよ聞こえてんだろうが!」
凄みを利かせた声で春彦が怒鳴ると、男達は急いでスギナから離れた。怯えたような態度で春彦に平謝りをする。
「あのごめん春彦さんの連れって知らなくて!」
「マジごめん!すいませんでした!」
春彦は舌打ちし
「るせェんだよ、失せろ!」
三人は気まずそうに顔を見合わせたが、「それじゃ」「わり、春彦さん」「ごめんね!」と口早に言いそそくさと去っていった。
春彦は目深に被ったニット帽の下から鋭い瞳で男達の背中を苛立たしげに睨みつけていたが、いつもの表情に戻ってスギナの方へ顔を向けた。
「よくここが判ったな。昼には帰るつったろ、何で来た」
「お前が家にいない間敵がきたらどうするんだ。樹や草に訊きながらここへ来たんだ」
「あー…便利だな、魔物って」
「今の春彦の友達か?」
危うく叩きのめす所だったと思いながらスギナが訊ねると、春彦はハッと鼻で笑った。
「だーれが!あんな頭の悪いクズ共!只の同級生だよ」
「同級生?でも春彦さんって呼んでたぞ」
それはどうでもいいんだよ、と春彦は歩き出した。スギナもちょこちょこと後を追う。
「ああ、そうか。だからオレにも、あいつらみたいに春彦さんって呼べって言ってたのか?」
「ちっ――がうっての!遊ぶ金が欲しいだけだああいう連中は、あいつらとお前は別だ!それよりお前、今みてえな事があるんだから気をつけろよ、今日はオレが偶然見つけたからいいけどよ、お前だけじゃ――」
春彦、というスギナの声がやけに上の方から聞こえたので、春彦が顔を上げるとすぐ横に差し掛かっていた門柱の上にスギナは飛び乗っていた。 ぎょっとした瞬間、スギナの手ががっしりと襟ぐりを掴み、春彦は地面から2cm程軽々と持ち上げられていた。
「うわっおい、スギナ!」
「解った?オレは人間よりずっと力持ちで体も頑丈なんだ。あいつらぐらいどうってことなかったよ」
すとんと春彦は地面に下ろされた。スギナもぴょんっと地面に飛び降りる。春彦はすげえ、と呟き
「何だじゃァあいつらぶっ飛ばせてたんだな。止めなきゃ良かったぜ」
「よかったのか、同級生なんだろ?」
「いいって今度絡まれたら誰だろうとブチのめしてやれ。オレは基本的にオレ以外の人間はどうなろうが知ったこっちゃねえんだ――まあ…篠村さんとかは良い人だけどよ…他は本当にどうでもいい」
そこまで言って春彦は、ちらりと足元のスギナを見る。それから、お前は別だけどよ、と小さな小さな声で言った。
道路へ出た春彦は、思い出したように立ち止まった。
「っと、そうだ、ちょうどいいや服買いに行くか。お前その格好のまま来るんだもんな〜」
ぶかぶかのシャツをたくし上げ、一生懸命転ばないように歩いているスギナを指差して春彦は笑った。
「春彦、お金持ってきてるのか?」
「カード持ってる」
「カード?お金じゃなくて?」
「まあ人間界は色々便利な訳ですよ。行こうぜ、何着でも買ってやるよ」
「本当っ?いくらでも?」
「ああ、ディエスでもベインテでもトレインタでも、欲しいの全部だ。店にあるの全部買ってやってもいいぞ」
春彦は両手を広げる。するとスギナは、くすくす笑って春彦のシャツの裾を掴んだ。
「そんなにいらないよ、春彦」
「そうか?遠慮するなよ。服以外でも、何か欲しいのあったら全部言え」
久しぶりに、本当に久しぶりに春彦は楽しかった。
やはり旅行はいい。出かける度に素敵なものと出会えるのだから。特に、今回のは最高だ。春彦はスギナの頭に手を置いた。自分にこんな経験がないので子どもにどう接すればいいのかあまり解らないのだが、多分こんな感じでいいのだろう。 そう考えて春彦は、ついでに似合わない事をしてみようと思った。
「スギナ、手ェ出しな」
「ん?」
スギナは春彦を見上げ、言われた通り素直に右手を差し出してきた。こいつが頼れるのはオレだけで、守ってやれるのもオレだけなんだ――春彦は、一瞬どうしていいのか解らなくなる。こういう時、何をすればいいんだ?オレは知らない。
春彦の頭に、いつも見ていた背中が思い出される――背中ばかりを、見ていた。あの女も、彼の手を握ってくれた事はなかった。
スギナが不思議そうに春彦、と呼ぶ。
春彦はギッと歯を噛んだ――どうでもいい。どうでもいい――こいつの手を握ってやりゃいいだけだ。
ふっと笑った春彦は、不器用にスギナの小さな手を握り締めた。スギナが嬉しそうな顔をする。
「早く行こう!春彦!」
「わっ、おい走んなって!転ぶぞ!こらスギナ!」
春彦の声など全く聞き入れずに、けらけらと笑い声を立てながらスギナは全速力で走り続ける。バッグを押さえ、自分の方が転びそうになりながらも、春彦は笑っていた。
初めて繋いだ手は、とてもあたたかだった。






緑本組=兄弟、親友みたいなイメージですオス!
春彦についてはぼちぼち捏造設定があるんですが…数字がスペイン式、スギナ出現地ポルトガル→海外旅行?→学生(多分)で海外旅行→それなりに金持ってないと、みたいな自由連想で。大学生くらい?
とにかく仲良しな緑本大希望です

05.9.23



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