俯せになったまま倒れている青年の傷だらけの手が探しているものが、もうひとひらさえここに残ってはいない"本"なのだと気付き、ラウシンは何かに衝かれたように声を出した。 「ファンゴは、もういないぞ」 手の動きが止まる。ガリリと地面に爪を立てた所為で青年のその綺麗な爪は罅割れて血が滲んでいた。ゆっくりと――ゆっくりと青年は顔を上げた。傷を負った色の白い顔は青ざめ、きつく唇を噛締めていた。 スプーンよりも重いものを持った事がなさそうなこの坊やにしたら、あの攻撃で気を失わなかっただけでも上出来だ。 「…知っている」 「ザルチムも、もう、いない」 「知っている」 「侵入者達はもう上へ行った」 「知っている!」 甲高く声を張り上げ、アドラーは再び顔を伏せた。傷が痛むのだろう、先程から荒い呼吸を繰り返している。あの回復液とやらがあれば、彼にくれてやれたのだが。ラウシンは鈍く痛む腹を押さえてそう考えた。 そんなものは要りはしないと、ザルチムは受け取らなかったのだ。 どうして、とか細い声が言った。 「どうして、僕は、どうすれば良かったんだ、ファンゴを、どこで間違って、…」 ラウシンはそれを黙って聞いていた。 「彼は手を伸ばしたんだ…確かに見たのに――助けて、と、僕を呼んだ、でも、次にはもう、あの姿で、笑っているファンゴがいた、」 ゼ、と苦しそうに息を挟み、「気分がいいぜ、アドラー。僕の名前を呼んだ」 また荒い呼吸。ゴホゴホと何度か咳き込みもした。 僕の名前を呼んでくれたんだよ、と悲痛な声がその空間に響いた。 「自分が何者であったのかも忘れてしまったというのに、それでも、僕を、忘れずに、僕の名前を呼んでくれたんだ……」 ラウシンは口元の血を拭った。倒れている華奢な背中に眼をやる。初めて見た時はこんな奴が本当に戦えるのかと思ったものだ。喧嘩の一つもした事がないだろうに、と。 この一見大人しそうな青年は、繊細さと同時に炎の様に激しい気性も秘めていたらしかった。 「何故とめなかった?」 「ファンゴは…言ったんだ、可能性が欲しいと…ゼオンを倒す…だから、それで、僕は、――彼は微笑んだから、だから大丈夫だと、今までだって、僕達はずっと――どこで間違ったんだ?」 「別に間違ってはいなかった、お前達は…」 ラウシンは姿勢を変え、座ったまま地面に両手をついた。 「お前達はいつでもその時その時で一番良いと思える道を選んできたんだろう。だがこの世というのは色んな不確定要素が集まって集まって、定められた方向へと進んでいく…予定調和という奴か?神を信じている訳じゃねえが、そういうどうしようもない大きな力というものが確かにあるんだ」 「…それは東洋の思想か?」 「さあな。まあそっちとは考え方も違っているだろうが」 ラウシンは目を瞑った。 「ザルチムはファンゴを盾として使った。あの時ザルチムがああいう方法をとらなければ…共に戦っていれば、また別の結果になっていたかもしれん。お前に謝っておく。すまなかった」 ぴくりとアドラーの肩が震えたのが判った。どんな非難も罵倒も甘んじて受け入れるつもりだった。 「貴方が、謝る意味はない」 なのにその声はとてもか細かった。 「僕にどうしろと言うんだ?――解らないんだ、ザルチムが憎いのかどうかさえ、許せないのかも。どうしようもない、貴方もザルチムも、そうしようと思ったって憎む事は出来ない」 言い終えたアドラーはごろりと体を横に向けた。ラウシンの位置からは顔は見えない。ただ苦しげな呼吸だけが聞こえてくる。 憎めば、楽だろうに、 アドラーを眺めながら、ラウシンはぼんやりとそんな事を思った。オレには憎む対象さえ思い当たらない。誰を憎めって?あの侵入者達?やられたから憎むだなんて、それはガキのする事だ。だったら――ゼオン? ラウシンはかぶりを振った。 それも違う。自分でも理由を説明する事は出来なかったが、ラウシンはそう感じていた。 ほんの少しの間、完全な静寂が訪れた。 貴方はどうしてなんだと、それはまるで歌声の様に綺麗に彼の耳に届いたので、ラウシンはそれがアドラーの発した問いかけだと気付くのが僅かに遅れてしまった。 「貴方は初めからリオウ側だった」 こちらに顔を向けないままでアドラーは言った。 「僕は貴方は悪党ではないと考えている。何故だ?何故リオウに協力していた、何故ザルチムをとめなかった?」 「ザルチムが初めて心の底からやりたいと思った事だったからさ」 ラウシン、考えてもみな。こいつを本当に復活させる事が出来たら――それは本当に凄い事だと思わないか? 「お前達と同じようにリオウからの誘いが来てな…あいつは最初興味もなかったようだったが、実際にファウードを見て、何もかも吹っ飛んじまったらしい。冷えた眼しかした事のなかったあいつが、そこらの子どもみたいに眼を輝かせていたんだよ」 そういう所は子どもらしかったなと、ラウシンはフッと笑ってしまう。男は少年時代…いや、いつになっても大きな力に憧れる。ザルチムにとってはそれがこのファウードだったようだ。――尤も、彼はファウードの"力"でなく、これを復活させる事そのものに意義を感じていたようだったが。 「…リオウは人間界ごと消すつもりだったんだぞ、貴方はそれでも良かったのか?」 「解らん。どうだったんだろうな」 「貴方自身はあいつをどう考えていたんだ」 解らん、とラウシンはまたそう答えた。あいつのパートナーはあいつを理解できていたのだろうか。 「オレには結局最後まであいつを理解する事が出来なかった。このファウードもあってあんなに強い癖に、怯えにも似た焦りをいつも何かに感じていたように思う。外道だったとは思うさ、だが――ザルチムがあいつを認めた」 何でかね?オレはあいつを助けてやりたいんだ。 「今思えばザルチムは…この化け物兵器の復活よりも、リオウ自身を手伝ってやりたかったのかもしれん」 「――何故?何故だ?何故リオウなんだ、ザルチムにだって他に幾らでも選ぶ道があった筈だ、どうしてリオウを、」 「お上品な坊や、あんたは知らないんだろうがな」 ぬくぬくと陽の当たる温室で大切に大切に育てられてきたのであろう、世間知らずのこの青年に、ラウシンは諭すように話しかけた。 「誰もが必ず光のある世界へ歩いていく訳じゃねえんだ。そして光を選ぶ事が本人にとって必ずしも幸福であるとは限らない。そういう事だ。"そっち"じゃない、ザルチムは"こっち"に生まれ、そこを歩き続ける事を選んだんだよ。自分でな」 アドラーが小さく息を止めた。さて、理解できただろうか、このお上品な坊やに。それはどちらでも構わないと思う。こういう事は、理解できない人間には一生理解できないままなのだ。 例えそれが間違っていたとしても、と彼はまた歌うように問いかけてきた。 「主観と客観の違いだな…それを決める基準はオレの中にある。オレは自分が特別間違っていたとは思っていない」 「後悔は、」 「していない」 するとすればそれは本を守りきれなかった自らの不甲斐なさをである。気を緩めていた訳では決してない。だが、結果はこの通りだ。 あいつの相棒として相応しくなりたいと思っていながら、最後の最後にこのザマだ。どうしようもない。 ――そんな自分に最後の言葉を言う為に、ザルチムは歩いてきてくれた。 傷は痛んだだろうに。彼も自分も謝って、そればかりだった。そんな事をせずとも許されているとお互いに理解していながら。 「僕は、貴方が、羨ましい」 その声はかろうじて音として認識できる程のものであった。 「貴方の様にはなれない、どうしたらそういう風に考えられるんだ?そんな考え方は教わらなかった…」 教わったのではない、生きているうちにただ自分でそう学んだだけだ。 「僕は、どうしても、僕は後悔せずにはいられない。そうだ、ああ、あの時何かが違ってしまったんだと感じたんだよ、だけど彼が笑ったから、僕の名を呼んだから、」 相変わらず表情は見えないけれど、彼の声は殆ど悲鳴に近いものだった。 「――僕の唯一人のパートナーなんだ、例えどんなに変わったって、いずれ彼はまた彼であるようになると…僕はただ呪文を唱え続けた、どこかでやめるべきだったのか?もう、彼のあんな姿見続けていたくなかった――あの子は苦しんでいた!」 可哀相な奴だ、と、思った。 「あの子ほど王者に相応しい子はいなかったのに、一番彼を傷つけてしまったのは、この僕なんだよ……」 淑やかなこの青年は何と生き難い性格をしている事か。その少しも曲がらない生き方は、時として自分を守れない。何よりも自分を傷つける事になってしまうというのに。 彼はこの先ずっと、自らを地獄の業火で焼き続けるつもりなのだろうか。 「オレは今言ったな、間違っているとかいないとか、善悪を決める価値基準なんてのは自分の中にあるもんだ」 ラウシンは浅く息をして、「赦す基準も、自分の中にある」 どうしようもなく口の中に鉄の味を感じ、ラウシンは唾を吐き出した。想像通り赤いものが多く混じっている。 口元を押さえて、エレベータの方を見た。 「侵入者達はゼオンの許まで辿り着くだろうか」 「…解らない」 「他の連中はどうすると思う」 「解らない」 「お前はこれからどうする」 「…解らない」 「この世界はこれからどうなるんだろうな」 「解らない」 全くこの世は解らない事だらけだ。 ――それでも歩き続けなければいけない。ラウシンは痛む体を起こし、立ち上がる。腹部に激痛が走り、眉をしかめた。 アドラー、と青年を呼ぶ。 「お前がいつまでもそこでそうして這いつくばっている気がないのなら、立ち上がる為にオレは手を貸すが」 ふと、青年の肩が震えている事に気がつく。 「…泣いているのか」 「――泣いているのは、貴方の方だ」 彼の声は痛ましかった。 「僕、は、っもう泣かないと、そ、そう、決めたん、だ…」 ラウシンはアドラーの背中を見つめた。 どれだけ苦しい生き方をしているのか、この坊やは。 「こういう時は、泣いて良いと思うがな…」 一瞬――アドラーの震えが止まった。 断続的にまた震えが始まり、徐々にそれは大きくなっていく。しゃくりあげ出したのが判り、アドラーは体を折り曲げた。嗚咽はすぐに激しい泣き声に変わっていった。 泣く事は誰にだって必要だ。弱い事は罪ではない。 「ああああっ、あああああああッ――!!」 ラウシンは青年のむせび泣く声を何も言わずに聞いていた。滲んだ視界もそのままにしていた。軽く眉間を押さえる。 この青年はいつか自分を赦せる時が来るのだろうか。 そして自分も、いつかこの虚ろを埋められるだろうか? まだ声は止まない。まだ傷は痛んでいる。ラウシンは息を吐き出す。そっちはお前にとって生き易い場所なのか。こっちはこれからなかなかきつくなりそうだ。 たった一度でもいい。いつか再び逢う事が叶うのならば、今度こそ礼を言おう。 青年の慟哭はこんな時でさえ激しい歌声のように聞こえるのだ。ここでは空は見えないが、その聖歌は空に吸い込まれていくようであった。舞い上がるもの。舞い落ちてくるもの。全て。 いつか美しいものになればいい。 残された人達 あの後どうしたんだろうとか色々夢は膨らむぜ!何かラウシンはとても達観した人というイメージがあります。姫(アドラー)はまだ若いし多分坊ちゃん育ちで世間知らずだろうし、ネ!(何だ) あとザルチムの回想見てるとやっぱリオウとは人間界きてからの知り合いくさいんでそういう風にしたんですが、えーとでもどうだろリオウから誘いかけたのかザルチムが自分でファウードのとこ行ったのか。 ザルチムはとても魔物感知能力が高いのでコーラルQやモモンみたいにファウードの正確な位置まで行けるでしょうけど、りおーさまは物凄く感知能力低くていらっしゃるんで自分でそんなディオガ級以上の力もつ魔物とか探しあてられるのかっちゅー話ですわ。 まず最初にファウードの力ちらつかせといてまあまあ魔物の数が集まってから頼れるザルチム君に力を持った魔物探して貰って声かけてたとかですかねー 05.11.23 |