「情けねえ」
長い黒髪の男が振り向いた。元から鋭い目つきが、自分を見て更に鋭くなる。母国語で言ってやったのだが、意外にも通じたらしい――自分と同じ様に世界中を渡り歩いていて多言語に通じているか、その男の祖国が多民族国家で日常会話程度なら理解できるのか、それとも中国語を習いでもしているのか。
遺跡の大きな窓の前に立ち、飛び立ったばかりの己のパートナーを見送っていた黒いコートの男の名前はウルルという。苗字は知らないが、名前だけで充分だ。珍しい名だったので、一度聞いただけですぐに憶えた。
「私に何か用ですか」
きついオーストラリア訛りの英語で言った。澳大利亞…この男はオーストラリア人か。
英語で返すかよ、と思ったが、こちらも英語で答えてやる事にした。ウルルは窓の前に立ったまま、値踏みするようにこちらをじっと窺っている。
「情けねえ」 もう一度繰り返す。 「あんなガキの言いなりか?やっぱりテメェは腰抜けなのかよ」
後ろでツァオロンの小さな溜息が聞こえた。またか、という意味だ。
ウルルと初めて出会った時、出会う全ての人間にしてきたのと同じ様に、この男にも挑戦的に闘気を向けた。この一見お上品そうに見える西洋人の瞳に、自分と似たような匂いを嗅ぎ取って、だから彼は胸を躍らせた。オレと遊んでくれよ、と。
しかしこの男は今まで彼が経験した事の無い反応をしてきた。ファイトにも応じず怯えもせず声をかけてもこず、ただ無視をした。その行動に彼は激しい嫌悪を覚えた。
この男は多分自分のような人間が嫌いなのだろう。どうでもいい、オレも腰抜けは大嫌いだ。
今再び、挑発的な言葉を投げかけてみたのだが、ウルルは何も答えなかった。チッと舌打ちをすると、ツァオロンが壁に寄りかかった気配が感じ取れた。いつものように腕組みをして、眼を閉じているのだろう。パートナーのこのどうしようもない性癖の成り行きには、興味が無いらしい。
「数少ない操られてねェ人間同士だ。名前ぐらいは教えておこうか?」 両手で抱え込むようにしている明るめの青緑の本を僅かに持ち直す。 「オレの名は玄宗。魔物はツァオロンだ」
「折角ですが、名前を教えて貰っても無意味です」 やっと口を開いた。 「私が貴方の名前を呼ぶ事はないだろうから」
フン、と笑った。こういう態度は好ましい。それで自分と闘ってくれれば尚の事。
「ウルルさんよ、お前は何か格闘技はやらねェのか?拳法、空手、柔道、跆拳道、ボクシング、レスリング、カポエラ、サンボ、ムエタイ…何でもいい。何なら武器を使ったっていい。何でもいいんだ。ストリートファイトの経験は?」
「少しはあるがあんたの望むようなもんじゃない」 ”それ”に触れた途端に、口調がぞんざいなものになった。 「カラテもボクシングもレスリングもテコンドーも、テレビで観た事がある程度だ」
「別にそれでも構わねえ。お前、自分の強さを試したくはないか?少しは興味があるだろ?相手になるぜ」
ウルルは吐き捨てた。 「明日の天気の方がまだ興味があるね、洗濯物が乾くのか、ってな」
驚愕だ。そこらの軟弱野郎共はともかく、この男は少しは同じ人種だと思ったのに。少しも餓えていないというのか?闘わずして何の人生か。
生きる事そのものが闘いであり、強くなる事こそ生きているという事だ。彼はそうして生きてきた。
幾百、幾千。無数の相手と拳を交わしてきた。血を吐くほどの鍛錬を積んできた。世界中でストリートファイトを繰り返した。強い奴がいると聞けばどこへでも行った。裏世界の人間の用心棒をし、銃弾を相手にした事もあった――楽しかった。
充たされていた。幸福だった。生きていた。
彼は常に餓えていた。唯、強い者と闘いたかった。自分が強くなっていると実感する度…闘っている時だけ、本当に自分が生きていると感じられた。けれど目の前の男はそれら全てに興味が無いらしいばかりか、嫌悪さえしているようだ。
強さを求める。それの何がいけないというのだろう。
「あの小姑娘…パティ、だったか?」
ふっと視線を窓から見える空に向けた。
瞬時にウルルの顔が強張ったのが判った。名前を出しただけでこれとは、何をそこまで大切にしているのか。
「パティが、どうした」
「千年前の魔物達の指導者の一人に選ばれるくらいだ。結構な強さなんだろうな?」
答えは無い。肯定と受け取った。
「お前がその気じゃねえんなら、魔物の方に声をかけたっていいんだ」
ウルルの表情が険しくなった。 「子どもだぞ――女の子だ」
「だからどうした?」 彼は答えた。 「魔物は術なしでも生身の人間より格段に強えしな。それに年齢も性別も関係ねえ…人間でさえ、ずっと小さいガキでお前よりよっぽど強いのだっているんだぜ」
強さに限りは無く、年齢も性別も体格も格闘技の種類も関係ない。彼は今よりずっと小さく、体もまだ出来上がっていなかった7歳の頃、2mはあるボクサーの大男に、小回りの利く体格と技数が半端でなく多い中国拳法を最大限に生かして勝利した。
彼の基本的な格闘スタイルは中国拳法であるが、己の力を更なるものへとしてくれそうなものなら、世界各国のありとあらゆる格闘技を自分なりにアレンジして吸収した。対応できない格闘技はほぼないと言ってもいい。
「魔物を守りてえのなら、てめえが呪文を唱えるなり代わりに闘うなりすりゃいいさ。ガキより弱いお前にできれば、だが」
「一つ憶えておけ、ヤン・クイ・フェイの恋人」
彼と同じ名の皇帝の寵姫の名を出して、ウルルは言った。 「あの子を傷つけたら、私はあんたを許さない」
熱を帯びた声でそう言い放ち、それから彼には目もくれず立ち去ろうと背を向けた。
面白い。
己の事はどれだけ侮辱されても少しも反応しなかったのに、あの子どもの事となるとここまでとは。彼は右の拳を静かに握り締めた。まだ充分、彼の腕の届く距離にウルルはいる。だったらやはり、貴様に相手をして貰おうか。この程度の一撃すら無様にくらうようならば、オレも諦めてやるからよ。
ウルルには、背後で短く風を切る音が聞こえただけだっただろう。一瞬、激しい殺気を感じはしたが、振り向くには遅すぎたのだから。
衝撃音が大きく響いた。
――彼は忌々しげに舌打ちをした。
「お前は手加減というものも知らないのか、玄宗」 涼しげな目元をしたその魔物の子は、長い棍をくるりと回転させた。 「この人間を殺す気か?」
カツン、と地面に打ち付けられたその棍には、ほんの僅かだがヒビが入っていた。彼の一撃は、突然間に入ってきた棍によって遮られたのである。
「何の真似だ、ツァオロン!」
「それはお前だ。仮にも仲間同士で騒ぎを起こしてどうする?石にされるのはお前じゃないんだ」
「チッ…お前も同じだろうが。お前だって闘いたいんだろう!」
「その機会は幾らでもある。ゾフィスはオレ達に闘いの場を与えると約束した。それを待てばいいんだよ」 ツァオロンは鋭く言った。 「時を選ばず闘うのは、本当の強者ではない。バカのする事だ」
不機嫌に押し黙ったパートナーを尻目に、ツァオロンは何が起こったのか判別がつきかねているウルルを振り向いた。 「人間のあんた、気をつけるんだな」 そこで笑う。 「玄宗は変人だから」
「な…変人だと!?」
「ああ、お前は本当に人間か?そこまで強さに固執する奴は、魔物でも見た事が無い」
どうやらツァオロンに助けられたらしいと理解したウルルは、戸惑いながらも「あの…礼を言うよ」と言った。
「礼を言う必要は無い。あんたの為にやった訳じゃないからな」
「もういい、行くぞツァオロン」
苛立った声で言われ、ツァオロンもくるくると棍を回転させ、黙って彼の後に従った。
「シュアン・ツォン」 それに何か意味があるかのように、ウルルが一音ずつはっきりと彼の名を発音した。
ツァオロンはそのまま歩き続けたが、彼は足を止めて首をひねった。 「おっと。名前を教えたのは無意味じゃなかったんだな?」
「あんたは守る者がいないんだろう?」 とウルルは言った。 「自分の為だけの強さは本当の強さじゃねェ、それをあんたは解っちゃいない。私には守りたい者がいる、ずっと前から、だからあんたに到底敵わなくたって、オレは自分が強いと思う――そうありたいと思っている」
ああ、そうか…
その時彼は解った。自分とこの男は、根本からが違っていたのだ。彼の直感は正しく、この男も強さを求めていたのだろうが、けれどもそれは――
「ああ…そうかよ、お前は…お前もそういう下らねえ事を言う奴だったんだな?」 彼は半ば自嘲的な笑みを浮かべた。何故最初から解らなかったのだろう。 「本当の強さだ?闘う事の何たるかも知らねえ貴様が、そんな言葉を口にするんじゃねえよ。虫唾が走る。格闘家っていうものは、自分の為だけに強さを求める人種なんだぜ?」
前方に視線を戻し、前を行くツァオロンの小さな背中を見た。 「力試しがしたくなったらいつでも来な。喜んで相手をするぜ」
もう何を言っても聞くまい。彼はツァオロンを追った。数歩分遠ざかった所で、背後から低い呟きが聞こえてきた。
「…是撤消要求」
話せるんじゃねえか、と彼は思った。願い下げ、か。全く、度胸だけは上等だ。
廊下に出ると、棍を収めたツァオロンが、長々と息を吐き出した。 「若すぎる…その年でそれ程の腕前だというのは尊敬するが、やっぱりお前はその若さがいけない」
「ガキのお前が何を言ってるんだよ?」
「精神的な問題の事だ。功夫が足りない…お前の先祖の口癖だった。あいつはもっと賢かった…」
「フン、北宋時代の人間の言う事なんざ知るかよ。お前の頭は千年前のままなのか?今は時代が違うんだぜ」
「千年もじっくり考えられる時間があったからいえるのさ、人間」
ハッ、と彼は笑った。ツァオロンと同じ様な状況になったなら、多分自分ならば一年と待たず死んでいる――自らその道を選ぶ。自分が闘えなくなる時は、死ぬ時だけだ。
守る者がいる人間だけに得られる強さ?そんな戯言はもう沢山だ。今までにも何度かそんな事を言う相手がいた。勝ち続ける事だけに意味があるのではなく、負ける事にも意味があるのだとか、負けて初めて見えてくる道があるのだとか、真に”最強”というものは彼の様に年若い者にはまだ理解できないだとか。
本当に下らない。闘う生き方を決めた時から、勝つ事以外に何の意味がある?勝てばいいんだ、勝ち続ければ。常勝、不敗。それが”強い”という事だ。意味ある敗北?何だ、それは。生憎負けた事がないんでな。
「負けなきゃいいんだよ。オレ達は強い。負けはしねえ」



限り無き強さを純粋に求める男がいた。
その男は、そうしてそれから間もなくして、負ける事の意味を知ることになる。






姉えりちゃんに「玄宗とツァオロンの話を書け」と言われて必死こいて書いた話。
絵はともかく漫画や小説になると濃橙とハバナローズと赤茶と黄緑と青ととにかくその辺しかネタが浮かばんと言い張ったのですが、だったらウルパティと絡めて書いてくれと言われたのでこんな話になりました。私は頑張った…つー訳でグラブ&コーラルQモノ4649★

玄宗に似合うと思うストシリーズリュウさんのお言葉。
「そうだ…そこから立ち上がってこい お前はまだ敗けたわけじゃない」
「その痛みは必ず君を強くする 怯まずに這い上がれ!」
「闘いの中に苦しみもあるだろう しかし俺は、それでも前に進みたいんだ」

玄宗って本気で格ゲー参戦しても全く違和感なさそうだなあ…

05.1.9


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