とりあえず額のタオルを取り換え様かと、右手をすっと伸ばした時、大きなカエルの大きな目がパチリと開かれ視線がぶつかった。
突然の事で動きが止まる。魔物であるのにいかにも人間界のカエルのそれらしい、鈍い黄色い光を宿した眼は己の頭上に伸ばされた彼の手を見つめ、段々と焦点が合ってそれを完全に人の手であると認めたと思われる瞬間――大きな叫び声を挙げて文字通り跳ね起きた。
「あ――」
体は大丈夫なのかと訊ねる間も与えず、
「な…ッ、何だゲロ、お前もオイラの葉っぱを千切る気ゲロか!そんな事は死んでもさせないゲロ!」
小さな両手で必死に頭上のクローバーを守るようにし、怯えと怒りがない交ぜになった声で怒鳴った。
「…よく意味は判りませんが」 ウルルは肩を竦めた、「危害を加えるつもりなら、少なくとも私はここへ君を連れてきてはいませんよ、怪我は大丈夫ですか」
この言葉遣いがすっかり習慣となってしまっている自分に思わず苦笑してしまう。
言われたカエルの方はぽかんとしており、一瞬の間にようやくここに至るまでの出来事を思い出した様だった。
「そうだったゲロ、オイラは電撃の魔物相手に…」
「ガッシュ・ベルという名前だそうですが」 もう100回は聞かされた名前を呟く。
「オイラはどのくらい寝てたゲロか!?」
「ちょうど2日になりますね」
パティが切望し続けた”愛しのガッシュちゃんとの運命の再会”。それがまさかこんな展開になるだなんて。
何十回となくパティから話を聞かされ続ける内、それは”恋人”というものの定義から大きく外れた関係ではないのかと薄々思ってはいたのだが、まさか顔さえ覚えられていなかったとはウルルも予想すらしていなかった。 そして事態はいつも、ウルルが望むと望まざるとに関わらず、彼にとって好ましくない方向へと進んでいくのだ。
あっという間に勝負開始、あっという間に勝負は着いた。尤も、自分が本気で彼らを倒すつもりで勝負に挑んでいたのなら、或いは勝てていたかもしれないが、とウルルは思う。彼はいつもそうだ。この王を決める戦いでそんな情けは無用だと、いくらパティに言われても自分達が本当に危ない時以外は戦う相手――特に自分よりも年下の人間や幼い魔物の子――に全力で攻撃をしはしないのだ。 今回もまた然りで、最大呪文を”ガッシュちゃん”達に放った時も、心底からの力を込めてはおらず――込める事ができなくて、そして彼らは心底からの力を込めたのだった。
やれやれ、またパティに怒られるかもしれないな、自然と溜息が出て来る。そして目の前のカエルを改めてじっと見た。
雷の竜を食らった際、放っておく事も出来ず一緒に連れてきてしまったのだが、一体何なのだ?攻撃を受ける直前の言葉を聞くとどうやら自分達を助けようとしてくれたらしいが…ウルルはそこで考えるのをやめ、カエルに言葉をかけた。
「ところで、君の名前は?」 と、そこでふと気付いてすぐに付け加える。 「その子はパティ、私はウルルです」
カエルのすぐ隣で寝息を立てているパティに視線を向ける。
目に付いたホテルに飛び込んだものの、予約もなしに来たものだからシングル一部屋しかとれず――つまりベッドは一つだけであり、パティとカエルをベッドに寝かせてこの2日間彼は床で寝ていた。 日本のホテルの床はふかふかしていて本当に良かったと、嬉しささえ感じていた2日間だった。
名前を訊かれたカエルはベッドの上でくるりと1回転をし、ポーズを決めて大声で、
「オイラはビョンコ!カッコイイビョンコだゲロ!」
「では、ビョンコ」 ウルルは口に人差し指を当て、小声で言った、「もう少し静かにしていて貰えますか、パティはまだ目を覚ましていないので」
人間よりも遥かに体が丈夫で、治癒力も段違いに強い魔物であるパティ(それとカエルも)がこれなのだ、あのサンダードラゴンを自分がまともに食らっていたらと思うと恐ろしい。
「え…あ、この女、まだ目を覚ましてないゲロか!ゲロ〜〜、早いとこ説明をしたいのに…あ、そうだ、お前でいいゲロ!」
水掻きのついた手で指差され、ウルルは僅かに眉を寄せた。 「何の事だ?」
ビョンコの話は――ある方のもと、現在人間界に残っている王候補達を一掃する事、パティの強さを見込んで、彼女にもその手伝いをして欲しいという事、といったものであった。 その他詳しい事は今ここでは話せないので、一緒に彼らの拠点…南アメリカについて来る様にとも言い添えた。
「残念だが」 ウルルは肩を竦めた。 「そういう大事な事は、私1人では決められないんでね」
「何だゲロ、もしかしてお前この女の言いなりゲロか?」
「…まあ、そういう事です」
「ゲロッパ、情けない人間ゲロ!」
「そういえば君は1人なんだな、パートナーはどこにいるんですか?」
「だから言ったゲロ、アルヴィン――パートナーは今日は歯医者に入れ歯を治しに行ってるゲロよ」
「入れ歯?…」
「ああもうそんな事今はどうでもいいゲロ!とにかく一緒に来るゲロよ、少しでも早い方がいいゲロ。オイラは空を飛ぶ魔物に乗って日本まで来たからお前達も一緒に…」
そこでビョンコはしまったという顔をした。
「そうだったゲロ…今日はどうせ偵察だけだと思ったから、小さい魔物で来たゲロよ、どう頑張っても2人しか乗れないゲロ…ア〜〜〜…」
暫らく悩んでいたが、しょうがないと言う風に、時間はかかるが飛行機で来い、と言った。あちらに着いたら、改めて迎えに行くと。
「この女には向こうで説明すればいいゲロ、大丈夫、きっと協力すると思うゲロよ」
カエルの魔物がいなくなって、少しの間ウルルはまだパティが寝ているベッドに腰掛けて、考えあぐねていた。 しかし、やがて立ち上がってコートに袖を通し、準備を始めた。
「やれやれ…」 彼はまた肩を竦めて呟いた、「飛行機は、苦手なんだがね」
ウルルにとって幸運だった事といえば、結局飛行機の中でもパティは目覚めずうんざりする程の文句を言われずにすんだ事で、ウルルにとって不幸だった事と言えば、飛行機で日本から目的地まで、乗り継ぎも含めて約20時間近くかかるという事だった。



仮面の下から現れたのは、端整な少年の顔だった。
けれどその、人の心の奥底までも見透かす様な冷たい光を秘めた瞳は相変わらずで、整った顔の中にある2つのそれはその少年をどこまでも暗闇の様な存在に感じさせていたのだった。
ビョンコによって自然に出来たとは考えられない長い長い洞窟の中を案内され、そこでパティに全ての説明をし終えた後、”ロード”は訊いて来たのだった、それでパートナーの貴方はどうしますか、と。
パティは解ってるわよね、という顔で自分を見た。そうだ、自分はパティに従うしかない。ウルルは”ロード”に向かって頷いた。
「私もパティと同じ様に」
正直が美徳で気持ちを素直に顔に出す事が良い事だなどというのは、幸福な金持ちどもの戯言だ。つくべき時に嘘をつき、感情を胸の奥底に封じ込めれば巧く生きて行かれると、彼は子どもの頃から知っていた。
「君のパートナーが賢い人で良かったよ、パティ」 答えを聞いた”ロード”は満足気に言った。 「そうでなければ貴方の心も少しいじらせて貰わなければならない所でした」
それから、甦った魔物達と共にあまりにも雄大な朽ちかけた遺跡へと連れて来られた。水も食糧もここにあり、傷ついた体を回復させられる”月の石”もある、だから仕事が終われば必ずここに戻ってくる様に、光を失えば君達は再び石へと戻る。
――こいつ、ヒトの心の扱い方ってモンをよく知ってやがる。
要所を抑えた適確な説明を聞きながら、そんな事を感じた。憎悪に囚われた者にはその憎しみをぶつける相手を用意すればいいし恐怖を抱えた者はその怯えを利用し従わせればいい、退屈しきっていた者には戦う事でその渇きを癒せると言えば良いのだ。
胸焼けがした。
千年の呪縛から解放された魔物達のパートナーが”用意”されるのに、それから数日を要する事になる。

現在の魔物達との戦闘態勢が完璧に整った日、早速パティは再び日本に行くと言った。
今度こそガッシュちゃんの本を確実に燃やしてやるわ、と。
「パティ、ひとりで大丈夫ですか」
翼を持った魔物に乗り、今にも飛び立とうとしていたパティに駆け寄って訊ねると、パティは笑った。
「ウルル、何言ってるの?1人じゃないわ、私には強い魔物がこれだけ一緒にいるのよ、負ける訳ないじゃない」
それを独りと言うのだと、ウルルは言おうと思ったが、まだ全てにおいて幼すぎる彼女には理解できないだろうと考え言うのは止めた。 虚ろな眼をした人間達と、憎しみに支配された魔物の子達。彼らの中に唯1人でいる彼女には、自分がついていてやらなければいけないというのに。 彼女のしている事の意味を教えてやれるのは、今は自分だけなのだ。…けれど無理なのだ、どんなに教えようとも、今はまだ。 自分よりも小さな愛しき者が真っ暗闇に迷い込み、その幼い瞳を憎しみで燃え立たせる様を、無力な自分はどうすればいい?
そんな時、決まって彼は、本当に微かに、それとは判らない程に微かに眉を寄せ、黙ってパティの顔を見つめるしかない。自分の願いが早くパティに届けばいいと祈りながら。
魔物に乗った自分を見上げたままのウルルに、パティは酷く不機嫌な表情を見せた。
「…どうしてウルルはいつもそんな悲しそうな顔をするの?ウルルのその顔、私嫌いよ」
ぷいと顔を背けて、パティは命じた。
「じゃあね、ウルル。バディオス、行きなさい!」
――気付いていた…?
既に空高く飛び去ったパティの姿を、城の窓から暫らく見詰めていた。
気付いていないと思っていた。巧く表情を誤魔化せていると思っていた。表情を消す事も多くなっていた。けれどパティは気付いていたのだ、彼の表情の微かな変化を、それに込められた彼の本当の想いを。
彼のその顔をパティは嫌いだと言った――戸惑っているのだ。
ウルルが何故そんな顔をするのか解らなくて、その理由を解りかけている自分がいる事を認められなくて。
…オレでも、パティを連れ出す事ができるんだろうか。
思考はそこで中断させられた。
「パティはもう、日本へ向かった様ですね」
黙ったまま振り返ると”ロード”がいた。そして彼のパートナーの女性もその傍に立っており、妖しげな笑みを浮かべている。
「…何か?」
「いえ…貴方も含め何人かの人間には、そろそろ私の顔を見せても良い頃かと思いましてね」 ”ロード”は仮面に細い指を当てた。 「私の名はゾフィス…この仮面は、私の計画をより順調に進める為のものにすぎません」
そう言って”ロード”は仮面を外した。柔らかくカールしたブロンドと共に、一瞬少女かとも思える様な白い顔が現れた。
「そう、それが良いわ、いつでも貴方の顔が見られるもの」
パートナーの女性がくすりと笑ってゾフィスの肩に手を置いた。
「それから貴方に訊きたい事がありまして。私もパティの闘いは見させて貰いましたが、パートナーである貴方から見て彼女はどうです?巧く千年前の魔物達を統率できそうですか?」
――感情を隠せ。表情を見せるな。
「…彼女は、強い」 小さな声のつもりだったが、思いの外響いた。 「攻撃の判断も的確だし機転も利く、一つの物事に熱中すると周りの事が見えなくなるという短所もありますがそれはまた戦闘の際大きな動力にもなる、何より賢い。充分魔物達の統率者足り得ると思います」
聴き終えて、ゾフィスは薄く微笑んだ。 「それは良かった、魔物の事を1番理解しているのはパートナーだ、その貴方からそういった言葉を聞けて私も安心です」
「ねえ、パティちゃん、とっても強そうだものね」
「そうだね、ココ」
2人でクスクスと笑い合ってから、ゾフィスが再び訊いた。
「ところで、第3者としてではなく1人の人間として、彼女はどうですか?」
愉快そうな色を映したゾフィスの眼を、ウルルも少しの間見詰めていたが、小さな溜息をついて答えた。
「危なっかしくて、目が離せません」
「ハハ」 ゾフィスは肩を揺らして笑った、「貴方もなかなか大変だ」
顔を見合わせてまた2人は笑い合った。
「そうそう、それから最近遺跡の周りを嗅ぎ回っている鼠がいる様です、他の魔物に見回りをさせていますが貴方も注意していて下さい」
「シェリー達じゃないみたいだけど、誰かしらね?まあ、誰だろうと貴方の計画を邪魔する奴は潰さなくちゃ」
ウルルは、彼の1番目の妹と同じハシバミ色の髪の毛と瞳を持つ女性をちらりと見た。
――この女も、操られているのか?
いいや、違うのだろう、他の人間達と違って常に彼女の瞳は輝き、悦びと自信に満ちた笑みさえ浮かべているのだから。
ほんの一瞬、ウルルの顔に嫌悪の表情が浮かんだ。 千年前の魔物達のパートナーの子孫であるという人間達の中にも何人か自ら手を貸す者もいたが、こんな計画に進んで加わるなどと。
だが――
この女を初めて見た時に感じた事がある。それは酷く違和感を感じさせるもので、そしてほんの一瞬しか感じなかったものであり、だからウルルはそれについて考え様とはしなかった。
もう一度、ゾフィスと何事か楽しそうに会話を交わしている女の顔を見た。
どことなく、悲しげな女だと思った。


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04.6.1



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