この"這いずる者"が、と彼はよく言った。
"喧嘩"をふっかけられた時に、戦闘中に、敵を打ち負かした後に、この"這いずる者"が、と。
初め私は意味を解らず、また特に重要な意味があるとは思われなかったので、それについて彼に訊ねようとしなかったのだが、その言葉の響きに多分に嘲りや軽蔑といった類のものが感じられたので、その日遂に彼に訊いてみた。
「ロデュウ、貴方がよく言うそれは何なの、"這いずる者"って」
彼は僅かに首を傾けて私に視線をくれ、ああ、と口を開いた。
「人間には関係ねえだろうが、翼持ちじゃねえ奴らの事だ。オレらの間じゃ飛べねえ奴らはクソッタレなのさ、たまにいるんだが羽があるのに飛べねえ奴は、その中でも一番のクズだ。オレなら情けなさ過ぎて死んだ方がマシだな」
環境と習慣から生まれた、彼らの種族においての最大級の侮蔑の言葉という事か。
成る程、目を見張る速さで高く空を飛ぶ事の出来る彼らにしてみれば、ノロノロと地上を歩く(走ったところで彼らにとっては同じ事だろう)私達の姿など、惨めに地面を這いずり回る虫と変わらないに違いない。 自らの翼に自信と誇りを持つ彼は、だから言うのだ、"喧嘩"をふっかけられた時に、戦闘中に、敵を打ち負かした後に、この"這いずる者"が、と。
私はほんの好奇心の様なものから浮かんできた言葉を、そのまま口に出した。
「そうか、じゃあ貴方からすれば、私も"這いずる者"という事ね」
そう言うと、彼は変な顔をした。
と言っても、本当の意味で変な顔をした訳ではなくて、ただ私が彼のその顔を表現するのに相応しい感情の名前を知らないだけだ。 驚き、でもない、困惑、でもない。あえて言うなら戸惑い、が一番適した表現だろうか。 その表情のまま、彼は一つ一つ躊躇うように言葉を出す。
「いや、そんな、まあそういう事になるがよ、でもなそういう意味で言ったんじゃなくてだな、…チクショウ!」
彼は頭を掻き毟った。長い髪が大きく揺れる。とにかく、と彼は顔を上げた。
「お前は、チータ、違う。間違ってもお前は、"這いずる者"じゃねえ」
彼のこんな態度は初めてだったので、私は言葉に詰まってしまう。
つまり――私は彼の言葉の意味する所を整理してみる。私は空を飛べないが、”這いずる者”ではない。彼にとって、嘲笑や軽蔑の対象ではない――という事なのかしら。
「…そう」
私の短い返事に、彼は今度は慌てた様だった。
「おいチータ…怒ったのか?違うからな、オレが言ったのはだな、要するに…」
「違うわ、怒ってない。気にしないで」
こういう時、言葉と一緒に微笑の一つでもすれば相手を完全に安心させられるのだろうが、私は生憎とそういう手段を用いる性格には生まれついてこなかった。 彼はまだ困ったような顔をして何か口ごもっていたけれど、私はそれ以上何も言わなかった。
この反応から見ても、彼は私に気を遣ってくれているという事だ――戦闘方法から解るように慈悲というものを持っていないに等しく、他人への配慮などといったものとは無縁にも思える彼が、私の事を。
絶対に、"這いずる者"ではないと言ってくれた。
そう、この感情はよく知っているから表現できる。怒ったのではない、私は、嬉しかったのだ。これは、素直に喜んでいい事だろう。
"這いずる者"か――なかなか面白い表現だと思う。私は生まれつき空を飛べる翼のある、彼らの種族が生み出したこの言葉に半ば感心した。では、私達はどうだろう。私達は、彼らの事を何と表現する?
――悪魔。
人の歴史において"彼ら"を表現する言葉は数え切れないほどにある――敵対者、卑しく価値のない者、天にいる悪の諸霊、暗闇の世界の支配者、かの空中に勢力を持つ者、底なしの淵の使い、告発者、世界の支配者、この世の神――だが、彼を表現するのに、それ以上に相応しい言葉はないだろう。そう、私達は彼を悪魔と呼ぶ。 暗闇の色の長い髪、鋭い爪と牙、そして彼が誇る空を制する美しい翼、絵画や書物の中に現れる悪魔そのものの姿を、彼は持っていた。
世界の支配者、この世の神…人間は邪悪なる者達に対して、世界の全てをその手にする資格を持った名前を与えた。"這いずる者"にとって、つまり彼らは創世記の頃からそういう存在だという事だ。
彼は月を見るのが好きだった。
正確に言うと、好きな様に見えた。
毎日毎日、夜が来るたび彼は遥か空の月を仰いでいた。飽きもせずに繰り返されるその行為、それを見るのが私は好きだった。彼には月が良く似合った。
月には魔力がある。繰り返し繰り返し、満ちては欠ける月の姿に古代の人々は死と再生を見る。自殺・犯罪の増加、猟奇事件の発生、月は人を狂わせる。そこから魔女達のミサや人狼伝説も生み出されていったのだろう。海と同じ割合で水分を持つ人間の体に、月は人知の及ばぬ影響を与えるという。 科学的に証明されていなかろうが、私は月の持つ美しく狂気的な力を信じていた。月には魔力がある。彼には月が良く似合った。
「月を見るのが好きなの?」
私はその時の彼の姿がとても好きで、そこに存在する厳かでさえある空間を壊したくなかったから、いつもただ黙って彼の横顔を見つめていた。 彼の意識が月から離れたと認めた合間を狙って、私は彼に静かに声をかけた。
月光を浴びた暗闇の髪が揺れ、彼が振り返る。
「好き…と言うかな、見たくなるのさ。ガキの頃からそうだった」
「ガキ?…魔界にも月があるの」
「当然だろう、人間界にもあるじゃねえか。星だって太陽だってある」
驚いた。それでは魔界も人間界――地球と同じ、天体という事なのかしら。まさか人間界と時空が連続しているという事もないだろうし。 魔界は隔離された次元なのだと、勝手にそう考えていた私は、彼に返事をする事も忘れていた。
変な事を言うな、と呟いて彼はまた月を見上げた。
「ロデュウ、貴方には月は何色に見える?」
「何だって?」
「私はずっと銀色だと思っていた。でも人、と言うか国によっては白や黄色に見えるらしいの。白はともかく黄色は理解できないわ」
「おかしな生き物だな、人間は。何色も何も、月は月色だろ」
彼は当然のように言いのけた。
月は月色――確かにその通りだ。私は思わずフッと笑ってしまう。
「…そうね。素敵な答えだわ」
彼はおや、という表情で顔を向けた。
「珍しい。…チータが笑ったな」
「笑いたければ笑うのが普通だわ」
「そうだがよ、お前はどうも普通とは違うと思っていたからな」
「確かに普通なら、こんな訳の解らない危険な戦いに易々と手は貸さないでしょうね」
「ハッ、尤もだ」
私達はしばらく月を見ていた。月には魔力がある。彼には月が良く似合う。
「貴方はあそこまで飛んでいけないの」
私は月を指差した。彼は笑う。
「幾らオレでもそいつは無理だな、ガキの時はバカな事にそれを試した事もあったがよ。――だが」
彼は月を背にして振り返った。
「だからオレは、月まで飛べる…月を手に入れられるぐらいの力が欲しいんだ」
月を頂に抱いた悪魔の姿。
それはこの世の何よりも美しい光景に見え、だからその時私は、この世の何もかもを手にしたような感覚を味わったのだ。 この光景を見たのは、私唯一人。その事実は私を特別な存在に感じさせた。息を吸い込み、私は口を開く。
「では、あれが貴方の王冠なのね」
彼の頭上で狂おしい美しさで輝く満月。これ以上ないほど相応しい、悪魔の王冠に見えた。
私の言葉に彼は僅かに目を見開いた。そうして口が少しずつ笑いの形を成していく。
「王冠、か――素敵な答えだ、チータ。ああ、あれを手に入れた時、オレは魔界の王になるんだろうよ」
月の輝く空を支配する悪魔の姿は、きっと酷く美しいものに違いない。私は手に抱える暗い赤茶色の本を見た。
黙示録の終末の空は、こんな色をしてるのかしら。



「ロデュウ」
灯りのない部屋に彼の姿が見当たらなかったので、私は名前を呼んでみた。
月の光が入り込んできている窓が開かれている事に気付き、私はそこまで歩み寄る。窓から顔を出して左右を見回すと、思った通り彼は屋根の上にいた。 魔界にある家々と同じ造りであると言う、懐かしい屋根の上に立ち、今夜も彼は月を見上げていた。
「チータ、ここは月がバカみてえに近いな」
窓から顔を出した私に気付いてくれたのだろう、空を見たままの姿勢で彼は言った。彼の言うように、ここは空がバカみたいに近く、下界の景色がバカみたいに小さく見える。 これが、このファウードの力を手にする者に相応しい眺めという事か。
神にも等しい力なのでしょうね。
ついさっき、そう言った私を見たのは、彼とは正反対の天使のように綺麗な巻き毛を持った青年の、憂いを帯びたブルーの礼儀正しい瞳だった。
君はこれを神と呼ぶのか。
本当の意味ではどうだか解らない。だけど、人間の想像を遥かに凌駕し全てを超越した存在、そういう力を、人は神と呼ぶでしょう。
あの上品な人は細い指を折り畳み、その綺麗な顔の前で組み合わせ、祈りのように呟いた。
神に似ていて神でない――それは、悪魔の力に他ならない。
私は静かにその人を見つめていた。世界の支配者、この世の神、ええ、人は悪魔を神とも呼んだ。
それでいいのよ。彼がその力を望んでいるんだから。
そう答え、私はここへ戻ってきたのだった――彼の許へと。
そうだ、彼がそれを望むのなら、私も同じように受け入れよう。狂っていると言われるかもしれなくても。 あの青年は、ここにいる人間の中では一番まともであるかもしれない。私や他の者達がそうまで異常であるというのではなく、ただあの人は少し真面目すぎるのだ。その為にあの人は時に酷く苦しんできただろう――もしかしたら、これから更に。
それでも、私は――
「ロデュウ…このファウードの力を手に入れるでしょう」
名前を呼んでいながら、殆ど独り言のように言った。
「それの為に何か想像もつかない事が起きるかもしれないわ。何が起きるかは解らない。今の内に、そういう事を見極めたり、判断材料を揃えておかなくても貴方は構わないの」
ハッ、と彼は軽く笑った。そして片手を何かを掴み取るような形にした。
「判断する?全てはこいつの力を手に入れてからだろうが?」
考える間もなく彼は答えた。何とも彼らしい答えだ。それは彼の戦い方、ひいては生き方そのものを表しているように思えた。
確かに彼の性格を考えれば解る事だった。意訳すれば、始まる前からグダグダ考えても仕様がない、事が起こってから考えればいい、という感じかしら。 ――だけど、それではダメなのよ。彼が今まで経験してきた喧嘩程度の戦いならそれでも良かったかもしれない、だが、この"王を決める戦い"に於いては、それが通用しないという事を――王になるというのは、そんなに容易いものではないという事を、彼は解っていない。
だから私がサポートしなくては。
そうね、と一拍遅れた返事をして、私も月を眺めた。いつかと同じように、彼と一緒に月を見ていた。
「どう、ロデュウ、届きそう?」
あの時よりも、月は遥かに近付いている。
私の言葉の意味を汲み取ってくれたのだろう、彼は口元を笑わせて月に手を伸ばした。
「ああ…もう少しだ。こいつの力を手に入れた時、オレはあの王冠を手にできる」
その手の中に月を閉じ込めるみたいに、彼は翳した手を握り締めた。ええ、と私は答える。ええ、ロデュウ、月まで届くぐらいに高く飛べるように。
私は、"這いずる者"。
私は、空を飛べない。
それでも今は彼と一緒に月を見ている。私と彼の見ているものは、同じようでいてまるで違うものかもしれない。 或いは、全く別々のものに見えてとても似ているのかもしれない。貴方の世界と私の世界、もしかして溶け合う事はなかったとしても、それでも飛び続ける彼の後ろを私は歩いていくのだろう、彼が月を手に入れられるよう。
私は、空に憧れる"這いずる者"。
けれど彼に手をとって貰えば私は地上を離れて空を飛べる。月に憧れる彼の足りない所を私は補う。私達は、二人で飛んで初めて月まで手が届く。
その時まで、私は憧れる空に遠く手を伸ばしながら、地面を這いずり続けていくだろう。
彼が王冠を手にし、いつか月に姿を消すその時まで。






チタ→ロデュのような
ロデュウ様が送還される前に一本書いておこうという話。送還されたらされたでまた何か書きたいですというか漫画を描きたい
コーヒーブラウンはこんな感じで、信頼がありつつクールでドライな関係希望★

06.5.13



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