宝石のような色をした瞳から零れたそれは本当の宝石みたいで、小さい子はその涙をすくいとろうと思わず手を伸ばした。




とても、とても嫌いな手についたその赤い血が、果たして自分のものなのか、それともこの小さい子のものなのか判らずに、ただただレインはそれを見つめた。 ヒュゥ、と風にも似た音が喉から漏れ出る。鋭い爪で褐色の肌に赤い傷をつけられた小さい子は、震えるのも忘れたのだろう、目と口を大きく開いてレインを見ているだけだった。
「ここは…どこだ…」
レインは体を動かす。
と、引き裂くような激しい痛みが体中に走り、ガッ、と口からまた大量に血を吐いた。その血を見た小さい子が、ハッとした様にやっとまともに声を出した。
「ミミミッ、だだ、だめだよ動かないで!君、ひどいケガ、してる!」
「うる、せえ、このくらい…ッ」
体を起こそうとしたレインだったが、その行動は逆に重々しい音を伴って彼を地面に倒れさせた。地面。ふと、よく見るとそこは先程までレインが倒れていた森の中ではなく、木の板でできた床のようであった。更に自分はそこに敷かれた茣蓙の上に寝かされているようだ。 レインは眼だけを動かして、がたがたと震え涙さえ滲ませている目の前の小さい子を見る。
「ミッミッ、だ、大丈夫、大丈夫だから。…ぼ、僕が、するから、傷の手当て、ね?…」
手を動かそうとして再びレインは激しい痛みに襲われる。まずい、このままでは。うう、と声を振り絞りながら、レインは胸に手をやった。
動かないで、と小さい子がもう一度言いかけた時だ。
レインの巨体が見る見る変わり始めた。
小さくなっていくのだ。その身を覆う豊かな毛がざわざわと消えていき爪が無くなり骨格が変形して――呆然となった小さい子が見つめる中どんどんレインの体は小さくなっていき――気付いた時には、獣の代わりに血塗れでそこに横たわっていたのは、獣と同じように海の一番綺麗な部分と同じ色の髪を持った青年だった。
横たわったままレインは少しだけ腕を動かしてみた。ずきっ。痛みは相変わらずだが先程よりも幾分ましだ。こんな時にも生来の姿である巨躯は危険だ、しばらく負荷の少ないこの姿でいた方が良いだろう。レインは荒い呼吸を繰り返す。
「ミッ、ミミミミ…」
目の前の出来事が理解できず、小さい子がかたかたと震えていると――ドンドンドン!ドンドン!
「カイル!いるんだろカイル!」
扉を強く叩く音が聞こえてきた。
「お前さっき森へ行ってたんだろう!? 知ってるだろ、最近大きな獣が森に出るって話、そいつを銃で仕留めたって町の連中がさ――何だか知らないけどとにかく血の跡がここまで続いてるって煩いんだよ!ちょっと!出てきなカイル!扉の前につきまくってるこの血は何なんだい!」
まくしたてるその声はレインにも届いていた。しかし彼の意識はもう殆ど途切れかけている。小さい子が行くのを待たずに扉が乱暴に開かれ、女性が入ってきたのが微かに認識できた。
「お前まさかその獣をここに――」
ヒッ、とその女性が息を呑んだのは判った。
そうか。小さい子の引く台車に乗せられていたのをぼんやりと思い出す。この子は自分を助けてくれたのか。
「カイルッ!! 何だいそいつはッ!どこのどいつなのさ!」
「ミミミ、ミ、道に、ケガして、倒れて…」
「お前って奴は何もできねえ癖に厄介事ばっかり背負い込んで!私らは知らないからね、勝手に自分で面倒見るんだよ!」
レインの意識は消えてしまう所まできていた。もう見えるものは何も無い。女性の声、小さい子の声。全てが遠くなっていく。完全に暗い世界へ沈み込む前に、レインの胸を触れたのは久しく忘れていた、あの寂しさだった。
そうか――お前も、オレと、同じなんだなぁ…



明くる日にはもう起き上がり、歩けるぐらいにまで回復したレインに小さい子は驚いてばかりだった。
レインが小さい子につけてしまった僅かな傷は、まだチョコレート色の肌にくっきりと痕を残しているのに。レインは何よりまず自分の蛮行を詫びた。
君は何なのかと小さい子はレインに訊いた。見た時から普通の動物じゃないのは解ったけど、喋った時は凄くびっくりした、人間になった時はもっと凄くびっくりした、と。少し怯えたようにどもり、言葉を詰まらせながら。これは自分が傷付けてしまった所為ではなく、この子はとても臆病なのだと、レインは気付いた。
レインは、自分はこことは違う世界から来た生き物だ、とだけ言った。腹に抱えて守った"本"も、小さい子がちゃんと血を拭いて綺麗にして棚の上に置いてくれていた。中身は見ていないようだ。これ以上迷惑は掛けたくないので、あまり余計な事は言わないようにしたかった。早く怪我を治してここを出てパートナーを見つけないと。
次はレインが小さい子に訊ねた。
「お前は…カイル、どうしてオレを助けたんだ」
人間はどうせ自分を見ても恐怖するだけだろうと思っていた。同族の連中ですらそうだったのだ。だから目立たぬように森の中で身を隠していたのに。レインは誓って彼らに何もしなかったのに、レインを見た人間はすぐに彼を殺そうとしてきた。反撃もしなかった。それでも人間達は罠を仕掛け、石を投げ、銃を撃ち、レインを傷つけた。 化け物。ここでもまたそう呼ばれるのか。結局どこに行っても同じなのだ。レインは絶望した。
だから木々の間からこの小さい子が現れた時も、レインは動けない体で睨みつけた。近寄るな。グルル、と喉の奥から唸り声も出した。レインはその状態で出来る最大限の手段で小さい子を威嚇した。
大きなレインの体、外見、血溜まり、威嚇。小さい子はレインの期待通り、確かにガタガタと震えたし、泣き出した。そうなればもう来た道を逃げ帰るだけだろう。それなのに小さい子は、ふと何かに気付いたように表情を変え、涙は流したままだったが、なんとレインにすり寄ってきた。愛おしいもののように、レインの顔に腕を回してきた!
「だって君は、とても寂しい眼をしてた」
小さい子は言葉を選ぶように、注意深く言った。
レインは何を言われたのか解らなかった。誰の眼がどうした?
「最初怖かったけど、君の眼、凄く寂しそうだった…放っておくなんてできなかった。それに、困ってる人は助けるべきなんだよ。お父さんがいつも言ってた。そうしてた」
レインは小さい子の眼をじっと見た。黒いビー玉のようにきらきらとしている瞳。その大きな澄んだ眼は、金色の輝きを持つあの小さな少年を思い出させた。そうだ、きっとこの子も本当は強いのだ、あの金色の子のように。
レインはここにいる間、ずっとこの小さい子に全てを込めて出来る限りの親切をしようと思った。それは受けた恩を返す為だけでなく、小さい子と話をしていて自然に心からそう思ったのだ。この子は酷く善良な子だ。こちらも同じように優しくなりたいという気持ちにさせる。一緒に朝の食事をしながらレインはそう考えていた。
それにつけても解せないのは小さい子の扱いだ。
昼になってレインは少し体を動かしておこうと思って外に出た。海へ魚を獲りに行きたかったがやはりまだそこまでは体力が戻っていない。家を出た所で、小さい子の家の隣にある大きな、大きな宮殿に気がついた。レインから見ても相当に大きく立派な宮殿だ。 その宮殿を見上げていると、扉から眼鏡をかけた一人の女性が出てきた。匂いから昨日小さい子の所へ来ていた人間だろうと判った。あれだけ大怪我を負っていたレインがもう起きているのを見て彼女は驚いたようだった。
(何だお前、もう動けるのかい。血が大げさに出てただけで大した事はなかったようだね。その包帯もいらないんじゃないのかい、勿体無い)
正直、レインはこの女性に好印象を抱かなかった。もっと言えば早々に印象は悪かった。しかし小さい子の家族か何かかもしれない、と思っていたので頭を下げて挨拶をした。
(お前ここらじゃ見かけない顔立ちだけど、他所から来たのかい?)
(ああ、…私はずっと遠い所から来た)
(フン、まあ何でも良いけど怪我が治ったらさっさと出て行くんだよ。飯ぐらいは恵んでやるけど、居候置いとく余裕なんてないんだよ、ただでさえあの坊主の面倒も見なくちゃならないってのに)
(君はカイルの母親ではないのか?)
(はあ?)
女性は思い切り顔を顰めた。
(母親なもんか、私は長年ここのお屋敷に勤めてる者さぁ。ここのご主人が死んでから、迷惑ばかりかけるだけのろくでもないあのカイルの世話もしてやってんだよぉ)
レインはちらりと控えめに女性に視線を向けた。そしてすぐに勢いよく無遠慮にもう一度女性を見た。まじまじと女性の顔を見つめる。この女性が今、何か物凄い事を言ったような気がしたのだ。あんなに純粋で善良な、守らずにはおられない気持ちを起こさせる小さい子をこんな風に言うとは、この人間はどうかしたのだろうか。
女性はレインの視線に腹を立てたらしく、二言三言怒鳴りつけて家の中へ戻っていった。レインも小さい子の所へ戻った。
夜になってもその出来事がもやもやと頭の中を占め、レインはなかなか寝付かれなかった。
夕食の時に小さい子に色々と訊いた。失礼だとも思ったがどうしても訊かずにはいられなかった。小さい子の母親はもうずっと前に死んでいる。父親はこの町の町長で、半年程前に亡くなった。小さい子はひとりぼっち。父親が死んでからはこの家で暮らしている。
何という事だろう。小さい子はその辺りについてははっきりと言わなかったが、要するにあの立派な宮殿で暮らして然るべきの小さい子はこの粗末な小屋に追い出され、親の遺産を好き勝手にされている。食事だってろくなものではない。小さい子はひとりぼっち。レインは憤った。何だってこの優しい小さい子が、自分と同じでなくてはいけないのだ。どうして誰も小さい子を助けてやらないのだ。
レインは傷を庇いながら寝返りを打った。隣には小さい子が寝ている。一人でなく誰かと一緒に寝られる事が大層嬉しかったらしく、小さい子は寝付く前にも本当に喜んでいた。誰かが自分の存在をこれ程に喜んでくれる事に、レインは痛む程に心を揺り動かされていた。
「お父さん」
小さい子が呟いた。その寝言にレインは小さい子の顔を見た。小さい子がいい夢を見られるように…頭を撫でてやろうとして……やめた。手を握り締めて小さい子に背を向けて寝た。小さい子の寝息は安らかだ。
とても、とても嫌いなこの手が小さい子を傷つけてしまうことが怖ろしかったのだ。



一週間が何事もなく穏やかに過ぎていった。レインの傷は順調に回復した。時々顔をあわせるあの女性、ジルに会う度に嫌味を言われたがレインはまだ出て行かなかった。
小さい子は本当にすっかりレインに懐いてくれた。いつでもレインと一緒にいる。出来ればずっとここにいてくれたら嬉しい、というような意味の事を一度もごもごと控えめに言った。レインは小さい子が可愛くてたまらなかった。レインだって出来ることならここにいたかった。だが自分は魔物で、この人間界には戦いに来て、まだパートナーも見つけていない。 この小さい子がパートナーであれば…と思うが、しかしレインは何かが怖くて自分の本を小さい子に見せることが出来ずにいる。レインは小さい子を傷つけることを怖れている。
レインは小さい子を肩に乗せて森を散歩していた。人間達に撃たれた記憶もある森だったが、小さい子が喜んでくれることが何より大事だった。小さい子は非常に喜び、ふわふわしたレインの髪の毛に顔をうずめている。
「ミ、ミ、お父さんみたい、お父さんにもよくして貰ってた。レインは大きいね」
「獣の姿になれば木の上まで見せてやれるぞ。きっとここから海だって見える」
「ねえ、レインはどっちが本当なの?」
「本当。というのは?」
「最初倒れてた時は動物みたいな姿だったでしょ。でも今は人間の姿だよね、どっちが本当なの?」
レインは少し黙った。獣の方が本当だ、と答えた。その時突然木の上から鳥が羽ばたく音がして、小さい子が悲鳴を上げてレインの頭に益々抱きついた。レインは大丈夫、と声をかける。この子はこんなに臆病なのに、本当によく自分を助けてくれた。
「…えっと、つまりレインは今へんしん、してるんだよね。あれから獣の姿になってないよね。本当の姿の方が楽なんじゃないの?関係ない?」
レインは立ち止まって屈み込んだ。小さい子に、レインの大きな掌にも収まりきらない程大きく頑強そうな石を見せる。小さい子がそれをよく見ている事を確かめると石を親指と人差し指で持ち直した。ぐっと僅かに力を入れると、その大きく頑強そうな石は粉々に砕け散った。破片がぱらぱらと足元に落ちていく。小さい子は息を呑み、ウワーオ、と声を漏らした。
「オレの種族はまも…オレ達の世界の生き物の中でも、とりわけ強い力を生まれつき持つ種なんだ。だからこうして人間と同じ様な姿になる。必要な時に力を制御する為に。本当言うと、そりゃあ生まれつきの姿でいた方が何となく楽だし落ち着く。だけどオレはたたでさえ強い力を持つ種族の中でも…特別でかい体を、力を持って生まれてきた。人間の姿でもこんなに力が強いんだ、獣の方になったらいつ誰を傷つけちまうか判ったもんじゃない」
レインは沢山の仲間を傷つけてきた。例え彼自身に傷つける気がなくても。加減を知らない幼い頃、戯れに触れた手で何体もの子どもに大人に怪我を負わせた。遊んで欲しくて手を伸ばすと、子どもは皆逃げていった。構って欲しくて手を伸ばすと、両親はそれを避け彼を疎んじた。彼は「忌み子」と呼ばれた。
レインはひとりだった。友達が欲しかった。一緒に遊んでくれる友達。自分を見て微笑んでくれる友達。この手を怖がらず手を繋いでくれる友達。皆が彼に怯えていた。彼を嫌っていた。彼を遠ざけた。レインはひとりだった。レインは寂しがって泣くことをその内忘れ、自分を嫌う全てにその牙を向けるようになった。レインは全くひとりだった。あの金色の少年に出会うまで。
「それにな、でかい体っていうのは時々不便でな。大怪我をしてる時なんかは負担がかかりすぎるんだ。だから今はまだこっちの姿でいた方が楽だ」
うん、うんと小さい子は相槌を打っていた。こんなに長いこと自分の話を聞いて貰うのは初めてだ。レインは余りに嬉しくなったので、自分の肩の所からちょこんと出ている小さな二本の足を思わず支えて握り締めそうになったが、寸前で気付いて大急ぎで手をシャツの胸元辺りに何度もこすり付けた。さてこれで手についていた石の破片は綺麗にのいたことだろう。
そのままもう少しだけ散歩をしてレインと小さい子は家に戻っていった。



その日はいつもより遠くまで散歩に行き、小さい子と一緒に海を見てきた。レインは海みたいだ、小さい子は彼の肩の上で弾んだ声を出した。海? 髪の毛の色とか眼の色とか、大きいとことか優しいとこが! この時レインは言葉を失い本当に、本当に何も言えなかった。もう少しだけ海辺を歩いて帰ってきたのだった。
戻ってきてからも小さい子の言葉を考え、レインは熱でもあるみたいにぼーっとしていた。お昼寝をしている小さい子の傍で彫像みたいに黙って座り込んだままだ。何しろ彼は生まれてきてから一度だって、優しいなどと言われたことがなかったのだから!
衝動的、そう衝動的だ、眠っている小さい子の頭にレインの大きな手が翳された、そして、少し、ほんの少しだけ、柔らかな小さい子に触れた。
自分の手にいきなり伝わったその感触にレインはびっくりした。極めてびっくりした。小さい子の頭に接近している自分の手に気付くと、物凄い勢いで飛びのいた。尻餅をついてしまう。まるで異質なものがくっついているかのように、小さく震えている自分の手を奇妙な眼で見つめた。もしかしたらもう少しで小さい子を傷付けたかもしれなかった――苦悶の表情をしてレインはその手を額に押し付けた――ただ…誰かの頭を撫でるっていうのがどんなものなのか、自分は唯一度でも知りたかったようなのだ。
小さい子が起きてきてからもレインは離れた場所に座っていた。この狭い場所で不自然なまでに距離を置いているレインを小さい子は少し不思議がっていたが、いつものように何より嬉しそうな顔でレインに話しかけてきた。
「レイン、そう、もうケガは治ったんだよね」
「ああ」
レインは言葉少なに答えた。 小さい子は自分のことよりも嬉しそうに喜んだ。
本当を言うと怪我は一昨日の時点ですっかり完治していたのだが、それを言い出すことができなかった。何故ならそうするとここを出て行かなくてはいけない。自分がいると敵の魔物を呼び込むことになってしまうかもしれない。しかしレインは小さい子が好きでたまらなくなっていたので、この子を置いてどこかに行くだなんてのは血迷いでもしない限りできなかった。
「さっきレインの眼の色が海みたいだって言ったけど、もう一つ思い出したよ。というよりこっちの方を最初に思ったのに今まで忘れてた。レインの眼って宝石みたい」
レインは黙っていた。
「そうだ君が大事にしてる本もあんな色だね。孔雀石って知ってる?深い緑色の宝石でね、凄くきれいなんだよ。お父さんの宝物なの。向うの家のお父さんの部屋の一番大事な所に隠してるから、今見せてあげられないのが残念だけど、僕も大好きな宝石。レインの眼は僕の大好きな沢山のきれいなものによく似ているね」
レインはまだ黙っていた。苦しい程の気持ちが胸をいっぱいに押し潰そうとしていて喋れなかったからだ。レインはじっくりと小さい子を見た。小さい子は視線を逸らさなかったばかりか、その至純の瞳でレインを見つめ返してきた。こんなにも誰かが一心に自分の眼を覗き込んでくれたことがあっただろうか?レインは思い出そうとした。そんな記憶はなかった。皆、レインを見れば顔を逸らしたし、或いは憎々しげな視線を向け、レインが睨みつければ怯えて離れていった。 生まれて初めて真正面から自分を見据えてくれたのはあの金色の子だった。今度はこの小さい子。あの子も小さい子も「レイン」そのものを見つめてくれた。
レインが王候補に選ばれた時だって、村の仲間は誰も祝福をくれたりはしなかった。あんな乱暴者が王になったりしたら魔界は終わりだ、と憎たらしげな視線をレインの本に向けてきたし、レインもそれで当然だと思ってもいた。ああ、金色の子も100体の内に選ばれたと聞いた、あの子も今頃こちらにいるのだろう。あの子は敵同士となった今でも自分を見て笑ってくれるだろうか。
ついに耐え切れなくなったレインはゆっくり、ゆっくりと小さい子に背を向けた。
「オレは……解らない、カイル。お前の言ってくれることが。オレはそんな奴じゃないんだ」
「レイン、どうしたの?」
「オレの眼は宝石なんかじゃないし、綺麗でもない。お前の大好きなものに少しも似ていない」
その衝動にレインは床に頭をついた。そうやって蹲ったままレインは呻いた。
「オレは忌み子だ。皆オレを遠ざけた、オレが傷つけるからだ、この手は何でも傷つけた、誰もオレに、オレを…、…」
腰の辺りに熱さを感じた。その熱は背中にも及び、すぐに体全体に広がっていく。これは小さい子の温もりだ。初めて会った時の様に小さい子がレインの背中から腕を回し、体中を抱き締めようとしていた。
今まで知り得ただろうか、抱き締めるという行為がこんなにも温かいことだったなんて?レインは大きすぎて抱き上げることは大抵の者にとって物理的に不可能だったし、そんな愛情ある行為をレインに示す者がいる筈がなかったのだ。何故かレインは眼が痛くなった。 カイル……知らない間にレインはそう漏らしていた。こんなに小さなひとりぼっちの子が、こんなに大きなひとりぼっちの自分を抱き締めている。小さい子は自分自身を精一杯大きくして、レインを包み込もうとしている!レインがまた知らない間にそっと腰に回された手に触れると、小さい子はそろそろとレインから離れた。熱はまだ残っている。おお誰かが彼に教えてやるべきだ、レインは今自分の手が小さい子に触れ、そしてそれは愛しい子を傷つけなかったことに気がついていない!
レインは改めて小さい子に向き直った。
その時のレインは怖ろしい何かに震え上がってついに疲れてしまった子どもの様な、何とも言えない表情をしていた。こうするべきだと思ったんだ。小さい子が遠慮がちに、しかし心から言った。
「レインが凄く悲しそうで寂しそうで悲鳴をあげそうで、きつく抱き締めるべきだと思ったんだ…」
彼の今までの経験から考えてみるに当然の結果として、レインは今この時にどう返事をすればいいんだか全然解らなかった。ただ、自分が今感じているこの苦しいまでの感情は喜びや嬉しさみたいだというのは解っていた。
「ねえレイン。本当の姿になって、今」
小さい子がとんでもないことを言った。
「ケガが治ったからもう平気だよね?ここ、狭いかもしれないけどあの姿になってほしいんだ」
「だめだ。言っただろうあの姿のオレは力が強すぎるんだ。オレにその気がなくたってお前を酷い目にあわせるかもしれないんだ、絶対にそれは嫌だ」
「ねえレイン。僕はどっちのレインも好きだよ、大好きだ。どっちもレインで、本当だもの」
「……」
「あの、多分、レインは今なら加減の仕方とか、力の使い方を知ってるんじゃない?さっき僕の手に触ったレインの手とてもおだやかだった」
レインは驚いて体を震わせた。いつ小さい子に触ってしまったっけ?
小さい子がひたむきにレインを見つめている。両手で肩を押さえレインは恐る恐る体を前へ屈ませた。レインはふと自分が滑稽に感じた。誰もが怖れたこの自分が今何より怖がっているのは、こんな小さな人間の子に怖れられ嫌われることなのだ。 それにしてもさっきから眼が痛い。どうしたというのだろうか全く。レインの体がめきめきと音を立て始めた。あっという間に全身が鮮やかな色の毛で覆われ、巨大な獣が現れた。ど、と背中が後ろの壁に突き当たる。天井には届かなくて良かった。
ち、小さい子は怯えたりしていないだろうか?レインはこわごわ視線を下に向けた。小さい子は変わらぬ純粋な瞳でレインを見上げていた。いや、さっきまでよりずっと眼が輝いているようにさえ見えるが気のせいだろうか。ほう、と小さい子は溜息をついた。うっとりしてとても言葉にできないのでせめて息にしたみたいに、ほう、と。 そのまま小さい子は、その小さな可愛らしい腕をレインに広げた。レインの全部を包み込んでくれるみたいな動作だった。
その時レインは全く自然に自分がどうすべきか解った。
レインは左手を僅かに動かした。この狭い場所で目の前の小さい子に触れるにはその程度の動作で充分だった。怖れることなくレインの手は小さい子の顔に触れた。もうびっくりしなかった。小さくて柔らかくて温かかった。大きな手に包まれた小さい子は、そうっとレインの親指を両手で抱き締めた。眼を閉じて何度も、何度も頬をレインの指にすりつけた。
「君の手は優しいよ」
ずきん!とまたレインの眼に痛みが走った。
「大丈夫…だよ、レイン……これからレインの手は、レインは色んなものを、守ったらいいんだ。守れるよ…」
両目が痛い。自分はどうしたのだろう。この爪は何でも引き裂いてきた。仲間を傷つけ酷い目にあわせ続けたとても、とても嫌いな手だった。何ということだろう。自分の手がこんなに小さな弱い存在を包み込めている。小さい子が緩やかに腕を放した。レインの顔を見て、ミ!?と驚いた声を出す。
レインの眼からぼろぼろと何かが零れていた。異常なぐらい両目が熱い。しかも視界が霞んでいる。レインは訳が解らなくて混乱した。フウ、フウと荒く呼吸を繰り返した。何か言いたいのだが何かが喉をきつく塞いでいて声が出せない。その間にもレインの眼からは熱さが零れ落ち続けていた。
宝石のような色をした瞳から零れたそれは本当の宝石みたいで、小さい子はその涙をすくいとろうと思わず手を伸ばした。
孤独の為にしか泣いたことのなかった獣は、温かさと優しさと幸福で泣いてしまうということがどんなものか知らなかったのだった。
小さい子はその本当に小さな手にレインの涙をすくいとった。絶対にそこから零れ落ちないように大事に、大事に腕を掲げ、小さい子はその手の中のものをレインが覗き込めるようにした。
「見て、レイン。レインの涙は、こんなにきれいだよ」






本日誕生色がマラカイトグリーンの日なのでそれに合わせて。
マラグリが好き過ぎます。レインはある意味魔物の中で一番パートナー大好きだったらいいと思います。
あとジルが書けて楽しかったですもっと出したかったな!

07.5.2



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